失火ノ件

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大審院刑事判決録（刑録）20輯2254頁

原判決を破毀し事件を東京地方裁判所に移す

弁護人山崎今朝弥、阿保浅次郎、佐佐木藤市郎、吉田三市郎、田坂貞雄、山本保上告趣意書第一点原判決に於て被告は製糸業駒井勘吉方に雇はれ同製糸場の火夫に従事し、且、其煙突の掃除を担任せるか同煙突の掃除を怠りたる為め大正三年四月十八日午後三時頃其煙突より火気ある煤煙を飛散するに至らしめ為めに其附近なる西川磯吉の所有なる土蔵の庇に燃へ移り約三尺四方を焼燬[しょうき]したる旨判示せるも被告が煙突の掃除を怠りたる証拠存在せる或は曰はん原判決中被告は当公廷に於て煙突の掃除は自分と他の一人にて番変りに為し大正三年四月十八日は自分の掃除番中にて掃除は五日目毎に致し同月十四日に掃除したるを以て後は十九日に掃除することになり居りたる旨の陳述を為せりと説示せるにあらずやと。 然れども[しかれども]右の証拠説明によれば被告は四月十四日に掃除を為したること明かにして同月十八日は未だ掃除を為すべき日にあらざるを以て被告は掃除を怠りたるものにあらず。 若し煙突の掃除数少きため失火するに至れりとせば五日目毎に暮除すべきものと定めたるものに於て失火の原因たる過失の責に任ずべき筋合なり。 果して然らば原判決は証拠によらずして本件犯罪の成立上重要なる事実を認定したる違法ありと云ふ[いう]に在り◎因で按ず[あんず]るに原判決は本件の失火は駒井勘吉方製糸場の火夫にして其煙突の掃除を担任せる被告が該煙突の掃除を怠りたる為め該煙突より火気ある煤煙を飛散したるに基因せるものと認定し被告に失火の罪責ありと為したるも原判決の証拠理由を通覧するに掃除を怠りたる点に関しては被告の原審公廷に於ける「煙突の掃除は自分と他の一人にて番変りに為し大正三年四月十八日は自分の掃除番中にて掃除は五日目毎に致し同月十四日に掃除したるを以て後は十九日に掃除することになり居りたる旨」の陳述及び第一審公判始末書中に「駒井勘吉方の煙突は五日目毎に掃除し本年四月十四日に掃除したり。 掃除を充分にせざれば火が出る旨」の供述記載を援用しあるに過ぎる。 然れども[しかれども]被告は元来煙突の占有者にあらざるを以て煤煙の堆積より生ずる危険予防の責任を当然負担するものにあらず。 其占有者たる駒井勘吉に雇使せられて煙突の掃除に従事するに過ぎざるを以て其責任は雇傭[こよう]契約の内容如何[いかん]に依りて定まるものとす。 従て契約の趣旨に依り該製糸場の煙突は五日目毎に掃除を為すべく十四日に掃除を為したるを以て十九日に掃除を為すべきことに為り居りたりとせば被告の掃除番に当れる十八日には被告は未だ掃除を為すべき責任なきものと謂はざるべからず。 之に反して毎日掃除を為すべき責任あるか又は常に煤煙の堆積せるや否やに注意し煤煙の堆積せるときは未だ五日目に達せざるも臨時に掃除を為すべき責任ありとせば被告が当番なる十八日に掃除を為さざることを以て其担任せる掃除を怠りたるものと謂ふことを得べきも前示の証拠に依りては被告に上叙の責任あることを認むるを得ざるを以て結局原判決は被告の掃除に関する積任を明かにすべき証拠を挙示せずして漫然被告に掃除を怠りたる過失あるものと断定したる不法あるものにして破毀を免れず本論旨は理由あり既に本論旨に依りて原判決を破毀すべき以上は爾余の論旨に対して説明を与ふるの要なし。

右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十六条に則り主文の如く判決す

検事林傾三郎干与大正三年十一月二十五日大審院第三刑事部