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大倉喜八郞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從五位、勳二等
爵位・身分・家柄東京府平民
職業株式會社大倉組、株式會社帝國ホテル、日本皮革株式會社、日本化學工業株式會社、東海紙料株式會社各取締役會長、東京製絨株式會社長、郡山絹糸紡績株式會社大日本麥酒株式會社、帝國劇場株式會社、帝國製麻株式會社、新高製糖株式會社、成田▲道株式會社、東京製綱株式會社、東京電燈株式會社、東洋汽船株式會社各取締役、日本製靴株式會社株式會社、北海道拓殖銀行、宇治川電氣株式會社、株式會社臺灣銀行各監査役、株式會社鐵業銀行監督、日清紡績株式會社、秋田木材株式會社、日本醋酸製造株式會社各相談役
性別男性
生年月日天保八年九月二十四日 (1837)
親名・続柄 大倉千之助の二男
家族妻 トク 安政五、三生、東京、平、持田トメ長女
男 喜七郞 明一五、六生
記述部分(略伝)君は新潟縣平民大倉千之助の二男にして天保八年九月二十四日を以て越後國新發田町に生る年十八にして江戸に出て一商店に仕へ勤むる事藪年頗る商機に通曉す後獨立一商店を開き雜貨商を營みたるも慶應元年業を改めて鐵砲彈藥其他舶來の武器を販賣す王政維新海内平定の後羅紗毛布を販賣し外人を雇傭して洋服舗を開く是れ我國洋服裁縫の嚆矢とす明治五年海外に航し歐米各國の商工業を視察して同七年歐米の制に傚ひ大倉組を組織し專ら彼我産物の直輸出入に從事す同九年英國倫敦市に支店を設く是れ我商家の英國に支店を開きし初めなり同十三年粗製茶輸出の結果其聲價を米國市場に失はんとするや君奮つて米國に航し演説を以て盛に日本製茶の眞價を宣揚して其挽回に努む爲めに舊に復することを得同二十年土木會社を組織し土木建築の事を兼營す又君は商工業の發展に伴ひ商工界に有爲の人物を作るの必要を感し金一百萬圓を投して東京大阪及朝鮮京城に商業學校を設置し以て益々斯業の發展に資し又濟生會には百萬圓を寄附せり尚君の關係する主なる諸會社は前記の如し
三女ツル(明一〇、八生)は東京府士族高島小金治に四女トキ(同一一、一〇生)は其夫粂馬(慶應二、三生、愛媛、士、伊藤晴雄二男)と共に子女を伴ひ分家し男米吉(明七、一〇生)も亦分家せり
住所・電話番号東京、赤坂、溜池葵町三 電話芝一五九
参照人物(親類)大倉喜七郞高島小金治大倉粂馬
参照次数6 (※なし5)
読みおおくら きはちろう
別名
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