何禮之 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正四位、勳二等 | |
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爵位・身分・家柄 | 錦鷄間祗候、舊長崎藩士 | |
職業 | 貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保十一年九月五日 (1840) | |
親名・続柄 | 何靜谷の長男 | |
家族 | 女 婦美 明二、一生 孫 盛三 明一七、五生、長女婦美養子、孫須磨子夫、男爵赤松則良三男、法學士 孫 須磨子 明二三、四生、孫盛三妻、長女婦美二女 | |
記述部分(略伝) | 何氏は元明人なり其祖存赤寬永年間長崎に來り歸化し累代唐年行司の職に就き十代を經て君に至る 君は先代靜谷の長男にして天保十一年九月五日を以て生れ年甫六歳にして家職を襲く夙に英語を學ひ濟美館學頭となり慶應三年開成所教授職に任し次て軍艦役並海軍生徒取締を命せられ明治二年造幣局權判事を兼ね府立語學校を管理し同三年大學少博士に任せらる同四年岩倉大使に随ひ一等書記官として歐米に航し彼の制度文物を視察し歸朝後專ら護法扶宗の事に盡力す爾來外務二等書記官驛遞寮出仕飜譯課長内務權大亟内務大書記官元老院議官高等法院豫備裁判官等に歷任す同二十三年十月錦鷄間祗候仰付られ翌二十四年十二月貴族院議員に勅選せられ今日に至る 家族は前記の外曾孫初彦(明四四、五生、孫盛三長男)同次彦(大元、一一生、同二男)あり 長男武(明三七、八生)養子英吉(同五、一生)は各分家せり | |
住所・電話番号 | 東京、豊多摩、澁谷町中澁谷五八七 電話芝三七八三 | |
参照人物(親類) | 男爵赤松則良、※男爵西紳六郞、※土子金四郞、※橫田保兵衛 | |
参照次数 | 5 (※なし1) | |
読み | か れいし | |
別名 |