北川乙治郞 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 勳六等 | |
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爵位・身分・家柄 | 滋賀縣平民 | |
職業 | 醫學博士、好生館院長、大正土地株式會社取締役 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 元治元年六月十七日 (1864) | |
親名・続柄 | ||
家族 | 母 みゑ 天保四、三生、滋賀、平、片山源五郞長女 妻 チヨ 明九、五生、子爵福羽逸人長女 男 重夫 明二五、一〇生 男 信雄 明二七、一〇生 女 ふみ 明三二、一〇生、學習院女學部在學 | |
記述部分(略伝) | 君は滋賀縣平民北川彌太郞の弟にして元治元年六月十七日を以て生れ明治二十五年一月分れて一家を創立す十七年東京大學醫學部に入り特待生となる同二十年時の陸軍々醫監石黑忠悳の一行と共に歐洲に渡航し獨逸伯林大學に入り更に同國ウエルツブルグ大學に轉し同二十二年卒業ドクトルメヂチーネの學位を得夫れより墺佛英の各大學を經て同二十三年歸朝和歌山縣立病院長に任し翌年四月名古屋市に於ける故橫井軍醫監の經營に係る私立病院好生館を繼き其院長となり尚醫學會醫師會を設立し其會長となり醫學の進步醫事衞生の改善に盡せしこと尠からす明治三十五年論文を提出して醫學博士の學位を受く又日清戰役に際し名古屋豫備病院に於ける治療を囑託せられ功に依り勳六等に叙し瑞寳章を賜ひ日露役に際し篤志を以て名古屋豫備病院に於て診療に盡力せし廉に依り單光旭日章を賜はる 家族は前記の外三男忠之(明二九、一生)四男松之助(同三一、一〇生)五男寅夫(同三五、三生)三女ハナ(同三九、二生)六男靜男(同四一、三生)あり 弟文男(同五、一一生)は其妻と共に分家せり | |
住所・電話番号 | 名古屋、東、南外堀町二一一 電話長二九五 | |
参照人物(親類) | 子爵福羽逸人、北川文男 | |
参照次数 | 2 (※なし2) | |
読み | きたがわ おとじろう | |
別名 |