大倉喜八郞 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正六位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | ||
職業 | 合名會社大倉組頭取、帝國ホテル株式會社取締役、日本製靴株式會社監査役、札幌麥酒株式會社取締役、成田鐵道株式會社監査役、北越鐵道株式會社監査役、函館船渠株式會社取締役、東京商工相談會常議員幹事、株式會社成田銀行相談役、十勝開墾合資會社代表社員、農商工高等會議員、郡山絹絲紡績株式會社取締役、東京商業會議所副會頭、株式會社臺灣銀行監査役、東京電燈株式會社取締役、日韓通商協會評議員、東京水力電氣株式會社取締役、京釜鐵道株式會社取締役、東京製絨株式會社協議員、株式會社鐵業銀行監督 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保十一年五月四日 (1840) | |
親名・続柄 | 大倉喜七の二男 | |
家族 | 妻 とく 安政五年三月生東京府平民持田とめ長女 男 喜七 明治十五年六月生 女 とき 明治十一年十月生養子久米馬妻 養子 粂馬 慶應二年三月生女とき婿愛媛縣士族伊藤主計弟 | |
記述部分(略伝) | 君は新潟縣新發田大倉喜七の二男にして天保十一年五月四日を以て生る年十八江戸に出で一商店の丁稚となり勉むると數年頗る商機に通達す既にして一小店を開き雜貨商を營む慶應元年業を改め鐵砲彈藥其他の武器を販賣す維新の役非常の利を占む海内平定の後外人を雇使して洋服店を開き又海外貿易に從事す明治五年海外に航し歐米各國の商工業を視察し翌年歸朝歐米の制に傚ひ大倉組を組織し專ら彼我産物の直輸出入に從事す後事業を擴張して英國倫敦に支店を設く十三年粗製茶輸出の結果其聲價を米國市場に失はんとするや君奮ふて米國に航し言論演説に盛んに日本製茶の眞價を宣言し其挽囘に勉む爲めに幸に舊に復するを得二十年土木會社を設立し盛に土木建築の受負に從事す甞て東京府會議員に擧げられし事あり又往年五十萬金を投じて商業學校を設け實業界に資益を與ふる事不尠 家族は前記の外孫彦一郞(明治二十八年五月生)同豐治郞(同二十九年十二月生)同銀三朗(同三十一年八月生)同美代子(同三十四年四月生)等にして女つる(同十年八月生)は大倉組副頭取東京府士族高島小金治に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京市赤坂區溜池葵町三 電話新橋一五九 | |
参照人物(親類) | 高島小金治、大倉久米馬 | |
参照次数 | 3 | |
読み | おおくら きはちろう | |
別名 |