大久保利和 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 從三位 | |
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爵位・身分・家柄 | 侯爵、舊鹿兒島藩士 | |
職業 | 貴族院議員 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 安政六年七月七日 (1859) | |
親名・続柄 | 大久保利通の長男 | |
家族 | 妻 尚 明治八年十月生文學博士重野安繹養女 弟 駿熊 明治三年六月生 弟 利賢 明治十一年十月生 | |
記述部分(略伝) | 當家は鹿兒島藩士大久保利右衞門の子利通より家名を揚ぐ利通維新の際藩主島津久光の内意を受け京都に出で廣く四方の名士と交り天下の公憂を抱いて勉勵公武の問を一致し以て攘夷の功を奏せんとす會々伏見寺田屋の騷動起るや藩主久光より鎭撫の命を受け大山格之助と共に之に向ひ數人を斬り事漸く鎭るに至る夫より激徒の窺ふ處となる又土州侯の其臣寺村左膳後藤象次郞を遣し太政奉還を將軍慶喜に慫慂するや利通其議に參し遂に大政を奉還せしむるに至る木戸孝允等と共に藩籍奉還の議を建て郡縣の基を定む明治元年參議に任ぜられ夫れより東京に在りて三條實美公と共に政務を總攪し同岩倉具視と歐洲に赴き大勢を達觀し同六年歸朝す時に征韓論大に沸騰せり利通之に反對して内治を務む同七年佐賀の亂鎭撫の命を受け平定の功を奏し同八年征臺事件に關し全權辯理大臣として談判の末清國より償金五十萬を出さしめ西南の役起るや平定勳功あり同十四年五月參朝の途石川縣人島田一郞外六名の爲めに東京赤坂清水谷に刺されて薨ず時に年四拾有七聖上大に痛惜し給ひ右大臣正二位を贈り金幣を賜はる 君は其長男にして安政六年七月七日を以て生る明治十一年父の勳功により特旨を以て華族に列せられ同十七年侯爵を授けらる同十八年大藏省權書記官に任じ米國へ差遣され同十九年大藏省主計官出納局勤務仰付られ同二十三年貴族院議員となり第七議會の際精勵に付銀盃一組を下賜せらる明治十一年從五位に同三十一年從三位に叙せらる 妹芳(明治九年二月生)は在天津總領事從五位勳五等伊集院彦吉に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京市芝區芝二本榎西町三 | |
参照人物(親類) | 大久保利武 | |
参照次数 | 2 | |
読み | おおくぼ としかず | |
別名 |