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林有造 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級正三位
爵位・身分・家柄高知縣士族
職業衆議院議員(高知縣選出)、政友會總務委員
性別男性
生年月日天保十三年八月十七日 (1842)
親名・続柄 岩村英俊の二男
家族妻 かつ 文久二年三月生高知縣平民岡添仁三女
男 讓治 明治二十二年三月生
記述部分(略伝)君は高知縣士族岩村英俊の二男にして男爵岩村高俊及通俊は其の兄弟なり天保十三年八月十七日を以て幡多郡宿毛町に生る明治十九年先代林義次平の養子となり其名跡を相續す君夙に氣慨あり其幕末尊攘の諭熾に起るや時の名士板垣片岡等諸氏と共に討幕の役に從ひ尋で王政復古の大業なるや君朝命を奉じ英國に航し親しく泰西の文物を視察して歸る明治二年藩の大參事となり板垣伯と共に藩務を掌鞅す同六年外務省四等出仕に補し外務卿副島伯の清國に赴くに隨行して其議に參す此年征韓論起るや論議容れられず西鄕等諸氏と共に朝を去りて故山に歸り立志社を設立して其社長となり大に民權の伸張を圖る佐賀の亂西南の役國家王事に盡瘁し身は多難の衝に當りて亳も屈挫せず時に國事の犯罪を以て禁獄せられ時に政府の失體を痛論して保安條例執行の厄に遇し明治二十三年帝國々會の開設に際し高知縣第二區より選出せられて衆議院議員となり同二十七年再び選出さる同三十一年六月憲政黨内閣成るや君遞信大臣に任ぜられ同十月首相大隈重信等と意見を異にし閣議合熟せざるの故を以て板垣松田の諸氏と共に辭職し爾來自由黨總務委員として重きを政海に置かる後政友會の成るや又其牛耳を握り政友會内閣を組織せらるゝや入りて農商務大臣となれり同卅五年同縣郡部より選出せられて同議員たり
家族は前記の外男道太郞(明治二十六年一月生)同卓爾(同二十九年九月生)同要(同三十二年九月生)同女吉(同三十一年八月生)孫よし(同十五年九月生亡養子和政女)あり
女以可(慶應元年七月生)は高知縣士族大江惟慶に嫁せり
住所・電話番号東京市芝區伊皿子町一一 電話新橋一七一
参照人物(親類)男爵岩村通俊、男爵岩村高俊
参照次数2
読みはやし ゆうぞう
別名