長與稱吉 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | ||
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爵位・身分・家柄 | 舊肥前大村藩士 | |
職業 | 醫學博士、長與胃膓病院長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 慶應二年正月七日 (1866) | |
親名・続柄 | 長與專齋の長男 | |
家族 | 母 その 嘉永二年四月生長崎縣士族後藤多仲女 妻 延子 明治十年三月生伯爵後藤猛太郞妹 弟 程三 明治八年二生 同 又郞 明治十一年四月生 妹 みち 明治十八年十二月生 男 立吉 明治三十年十月生 | |
記述部分(略伝) | 當家は先代從三位勳二等醫學博士長與專齋より家名を揚ぐ專齋は肥前大村藩醫長與俊達の男にして天保九年を以て生れ年十七上坂して蘭學及び醫學を修め後長崎に往き蘭大明白に從遊す藩主の召に依りて待醫となり後再ひ長崎に遊び外醫に就きて研究す明治三年大學少博士に任し同四年田中文部大丞隨行員として歐米に航し醫學教育醫事衛生制度に關し獨逸和蘭及び英國に於ける學説及實際の事務を視察して歸朝後醫務局長に任せられ醫制取調を命せらる又夙に洋行中種痘法を研究し同七年痘種繼所を東京府下に設立し醫務局管理に附せしむ今日我か國至る處に種痘を普及するは實に君の賜のなり同九年米國費府博覽會に差遣され米團獨立百年祭醫事總會に臨み歐洲各國衞生局を巡視し同十年歸朝後内務大書記官衛生局長等に歷任し同二十三年勅選貴族院議員に同二十五年宮中顧問官に任せられ同三十五年病を得て卒す 君は其長男にして慶應二年正月七日を以て生る幼より學を好み後帝國大學醫科大學に入り胃病理を研究する多年業卒へ後去て米國に遊び各州大學に胃膓病を修めドクトルの學位を得歸朝後東京市麴町區内幸町に長與胃膓病院を設立し其院長となり現に其業を執る同三十五年九月家督を相續し同十月醫學博士の學位を授けらる 家族は前記の外女美代子(明治二十八年三月生)同仲子(同三十三年一月生)及び弟善郞(同二十一年八月生)あり 妹保子(同五年三月生)は松方巖に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京市麴町區内幸町一ノ二 電話新橋一三八四病院電話新橋一六八 | |
参照人物(親類) | 伯爵後藤猛太郞、伯爵松方正義、松方巖 | |
参照次数 | 3 | |
読み | ながよ しょうきち | |
別名 |