高崎正風 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正三位、勳一等 | |
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爵位・身分・家柄 | 男爵 | |
職業 | 樞密顧問官兼御歌所長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 天保七年七月二十八日 (1836) | |
親名・続柄 | 高崎溫恭の子 | |
家族 | 男 元彦 明治二年八月生 婦 恒子 明治十四年一月生男元彦妻大分縣士族橫井忠直女 男 益彦 明治十三年一月生 | |
記述部分(略伝) | 當家は藤原鎌足の曾孫魚名の後裔豐後守景直の後なり景直豐後高崎の城主となり地名を以て姓となす其十世親兵に至り島津家に仕へそれより數世を經て溫恭に至る溫恭詩文を能くし又剛直の士なり藩主相續の爭あり遂ひに奸人の爲め寃枉を以て之れに死す 君は此忠臣溫恭の男なり天保七年七月二十八日を以て生る幼名を佐太郞伊勢左京又豐後といふ藩命を受けて禁關警備に當りて功あり戊辰征討軍官軍參謀を命ぜられ櫛風沐雨王事に勤勞す明治四年少議官に任じ同年理事として歐米各國へ差遣され同五年三等議官に任じ同七年大久保辨理大臣に隨ひ清國へ差遣同八年侍從番長御歌掛兼勤同十年侍講同十一年兼皇后宮亮同十九年式部次官御歌掛長等に歷任し其間諸職に補し同二十年五月特旨を以て華族に列し男爵を授けらる同二十一年御歌所長を仰付られ同二十二年宮中顧問官兼小松宮別當に同二十三年兼北宮川宮別當に同二十八年樞密顧問官等に歷任し同三十二年帝室制度調査局御用掛を仰付られ職を宮内に奉じて三十年來精勵一日の如し明治四年十二月正六位より同三十三年三月正三位に昇叙せられ瑞寶章及び土耳古國皇帝より美治慈惠第二等勳章を受領し佩用することを允許せらる 家族は前記の外男義雄(明治二十三年五月生)孫正光(同三十一年五月生)あり 女竹子(明治九年一月生)は子爵田中不二麿男阿加麿に女松子(明治十七年生)は子爵芝山孝豐に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京市赤坂區高樹町八 電話新橋一〇九九 | |
参照人物(親類) | 子爵田中不二麿、子爵芝山孝豐 | |
参照次数 | 2 | |
読み | たかさき まさかぜ | |
別名 | 佐太郞、伊勢左京、豐後 |