明治四十三年(れ)第二七七三號
明治四十四年二月九日宣告
◎判決要旨
- 一 共有金ノ分割前ニ於テハ共有者ノ一人ハ持分ヲ有スルニ過キサルヲ以テ若シ自己ノ爲メニ之ヲ費消シタルトキハ其費消セル金錢ノ全額ニ付キ横領罪ヲ構成スルモノトス
右横領被告事件ニ付明治四十三年十一月十六日名古屋控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ被告ハ上告ヲ爲シタリ因テ判決スルコト左ノ如シ
理由
木件上告ハ之ヲ棄却ス
被告上告趣意書ニ縷縷叙述スル所アルモ其要旨ハ第一點原審ハ被告ト大橋喜一郎トノ間ニ共同ノ營業關係アルコトヲ認メ該共同營業契約ノ内容ニ付キ毫モ説明ヲ加ヘサル違法アリ何トナレハ組合員タル被告カ共同營業ノ資金ヲ費消シタルニ因リ横領罪カ成立スルヤ否ヤハ一ニ其契約ノ内容如何ニ依リテ定マルモノナレハナリ若シ又本件ノ場合ニ其契約ノ内容ニ付キ何等ノ特約ナカリシモノトセハ法律ノ定ムル所ニ依リ之ヲ決スルノ外ナク從テ大橋喜一郎カ出資シタル金五千四百十八圓十五錢ハ民法第六百六十八條ニ依リ一應被告ト大橋喜一郎トノ共有トナルヘキカ故ニ原判決ニ認ムル下職人ノ支拂殘額千二百九十三圓五錢モ亦兩人ノ共有トナルヲ以テ被告カ之ヲ費消シタレハトテ宛カモ他人所有ノ千二百九十三圓五錢ヲ費消シタルモノノ如ク事實ヲ認定シタル原判決ハ不當ナリ次ニ又組合資本ハ契約ニ別段ノ定メナケレハ被告ニ保管權ナシト云フコトヲ得ス寧ロ組合員ハ何レモ其權限アリト見ルヲ至當トス果シテ然レハ被告ハ次ノ損益計算期迄ハ之ヲ大橋喜一郎ニ引渡ス義務ナク而シテ損益計算期ニ付確タル定ナキヲ以テ雙方協議ノ上之ヲ定ムル迄ハ被告ハ之ヲ引渡ス義務ナシ又計算期來リタリトスルモ同時履行ノ抗辯權ニ因リ大橋喜一郎ヨリ計算ヲ爲ス迄ハ被告ヨリ計算ヲ爲スノ義務ナシ且假リニ計算ノ結果被告ヨリ大橋喜一郎ニ引渡スヘキ金員アリトスルモ若シ喜一郎ヨリ受取ルヘキ金員アラハ其受領迄ハ上告人ヨリ引渡スヘキ金員ハ雙方商人ニシテ商行爲ニ因リ被告ノ占有ニ歸シタル金員ナルカ故ニ商行爲ニ因リ生シタル相手方ノ債務ノ履行ヲ受クル迄被告ハ之ヲ留置スル權利ヲ有ス然ルニ是等ノ相手方ヲ盡スヘキ義務ナキニ拘ハラス直ニ被告ニ本件ノ犯罪アリト認メタル原判決ハ不當ナリト云フニ在レトモ◎原判決ノ判示事實ニ依レハ被告ハ大橋喜一郎ト共同シ同人名義ヲ以テ呉服類ノ染方及其販賣ノ業ヲ營ミ喜一郎ハ營業資本ヲ出金シ被告ハ染方下職人ニ對スル染色ノ依頼竝ニ其賃金ノ支拂等專ラ染方ニ關スル業務ヲ擔當シ之ニ從事中染方下職人ニ支拂フヘキ賃金トシテ右共同營業費中ヨリ支出スヘキ金額合計五千四百十八圓十五錢ヲ喜一郎ヨリ受取リ其業務上占有中染方下職人ニ四千百二十五圓十錢ヲ支拂ヒ其殘額金千二百九十三圓五錢ヲ自家ノ用途ニ費消シ之ヲ横領シタルモノニシテ右判示ノ趣旨ニ據ルニ喜一郎及被告ハ各出資ヲ爲シテ共同ノ事業ヲ營ムコトヲ約シタルモノナレハ喜一郎ノ出資シタル金五千四百十八圓十五錢ハ喜一郎及被告ノ共有ニ屬シ被告ハ之ヲ自己ノ爲メニ費消スル權利ナキニ拘ハラス該共有金中千二百九十三圓五錢ヲ業務上占有シナカラ擅ニ自己ノ爲メニ費消シタルモノナルカ故ニ其費消ノ時ニ於テ直ニ刑法第二百五十三條ノ横領罪ヲ構成スルヤ明ナリ從テ原判決ハ罪トナルヘキ事實ノ判示トシテ毫モ缺クル所アルコトナク且共有金ノ分割前ニ於テ共有者ノ一人ハ持分ヲ有スルニ過キサルヲ以テ若シ自己ノ爲メニ共有金ヲ費消シタルニ於テハ費消シタル金錢ノ全額ニ亘リ他人ノ權利ヲ侵害シタルモノナルヲ以テ其全額ニ亘リ横領罪ノ成立スルコト疑ヲ容レス故ニ原判決ニハ所論ノ如キ違法アルコトナク論旨ハ理由ナシ
第二點縱被告カ大橋喜一郎ニ引渡ス義務アリタリトスルモ被告ハ同人ノ請求ヲ俟タスシテ辨濟期前ニ適法ノ辨濟ヲ爲シタル事實アルモノナリ然レハ之ヲ無視シテ千二百九十三圓五錢ヲ被告カ横領シタルモノトシタル原判決ハ不當ナリト云フニ在レトモ◎其理由ナキコトハ前項ノ説明ニ依リ自ラ了解スヘシ
第三點原院ハ右ノ如キ辨濟アリ且相手方ニ債務履行義務アリタリトスルモ一旦組合ノ金員ヲ費消シタル以上ハ横領罪ハ成立スルモノナリトノ意ニテ判決シタルモノトセンカ誤レルモノト云ハサルヘカラス何トナレハ特定物ヲ目的トスル債務ノ場合ニ於テハ或ハ然ラン然レトモ本件ノ場合ハ被告カ大橋喜一郎ヨリ金員ヲ受取リ殘額ヲ引渡スヘキ債務ヲ負ヘルハ決シテ其受取リタル金員其物ヲ返還セサル可カラサル義務ヲ負ヘルモノニアラス普通ノ金錢債務ヲ負ヘル場合ト同シク辨濟期ニ於テ他ノ金錢ヲ以テ辨濟スルコトヲ得ヘキモノニシテ是レ被告ノ權利ナリ(民法第四百二條)民法ハ此權利ヲ被告ニ與ヘタルト同時ニ辨濟期以前ニ於テハ被告ニ曩キノ受領金ヲ費消スルコトヲモ許セルモノト云ハサルヘカラス然ラサレハ法律カ他ノ金員ヲ以テ辨濟スルコトヲ許セル趣旨ヲ解スルヲ得サルニ至ル故ニ辨濟期ノ至ラサル本件ノ場合ニ金員ノ費消アリタレハトテ直ニ横領罪アリト云フヲ得ス然ルニ原審カ辨濟期ヲ確カメス又辨濟期經過シナカラ辨濟スルヲ得サリシ事實ヲ確カメス單ニ費消ノ事實ノミヲ見テ特定物ヲ目的トスル債務ニ於ケルカ如ク費消ト同時ニ犯罪アリトシタルハ不法ナリト云フニ在レトモ◎原判決ノ認ムル事實ニ依レハ大橋喜一郎ノ出資シタル金錢ハ喜一郎及被告ニ於テ之ヲ共有シ被告ハ之ヲ自己ノ爲メニ費消スル權利ヲ有セサルコト前出被告上告趣意書第一點ニ對シ説示スル所ノ如シ本論旨ハ原判決ノ認メサル事實ヲ主張シ之カ攻撃ヲ試ムルモノナレハ上告ノ理由ト爲スニ足ラス
辯護人井上保男同三浦倫吉上告趣意書原審判決理由ヲ査スルニ原審ニ於テハ大阪控訴院ニ於ケル第一囘公判始末書中被告ノ供述記載ヲ採テ以テ斷罪ノ資料ニ供セラレタリ然レトモ本件ハ最初被告ヨリ大阪控訴院ノ判決ヲ不當トシ上告申立ヲ爲シ其結果御院ニ於テハ被告ノ上告其理由アルモノトシ大阪控訴院ノ判決ヲ破毀セラレ更ニ名古屋控訴院ヘ移送セラレタルニ付其移送ヲ受ケタル原審即チ名古屋控訴院ニ於テハ通常ノ控訴ヲ受ケタル場合ト同シク事實憶法律ノ點ニ付全部ノ覆審ヲナスヘキモノニシテ畢竟此場合ニハ大阪控訴院ニ於ケル第二審ノ手續ト其判決トハ破毀ノ判決ニ依リテ消滅シ而シテ第一審ノ判決及之ニ對スル被告ノ控訴ノミ殘存スルコトトナルカ故ニ既ニ消滅ニ歸シタル大阪控訴院ニ於ケル公判手續ノ記載アル第一囘ノ公判始末書中被告ノ供述記載ヲ採テ斷罪ノ資料ニ供スルコト能ハサルヤ論ヲ俟タス然ルニ原審ニ於テハ之ヲ證據ニ援用シタルハ其採證ノ點ニ於テ違法アルヲ免レサルモノトスト云フニ在レトモ◎記録ヲ査スルニ大阪控訴院ノ爲シタル第二審判決ヲ曩キニ本院ニ於テ破毀シタルコトハ洵ニ所論ノ如シト雖モ之カ爲メニ適法ニ爲サレタル同控訴院ノ公判手續カ全部無效トナルヘキ謂ハレナク所論同控訴院第一囘公判始末書ハ同控訴院公廷ニ於テ適法ニ行ハレタル公判ニ於ケル被告ノ供述ヲ掲載シタルモノニシテ且適法ニ作成セラレタルモノナレハ書類トシテ有效ナルハ論ヲ俟タス原院カ該公判始末書中被告供述ノ記載ヲ罪證ニ供シタルハ違法ニアラス論旨ハ理由ナシ
辯護人音羽耕逸上告趣意書(一)原判決ハ大橋喜一郎ノ第二囘豫審調書中ノ供述記載ヲ其證據理由ニ引用セラレタレトモ同人ノ第二囘豫審調書ヲ査閲スルニ右引用セラレタル中「職方ヘ四千九百八十圓支拂ヒタルコトトナリ」(原判決原本中記録第四六七丁裏面初行ヨリ第三行マテ參看)トノ趣旨ノ供述記載ハ之レヲ存スレトモ(證人大橋喜一郎第二囘訊問調書中記録第九二丁裏面第四行ヨリ第九行マテ參看)其以下爾餘ノ供述記載ハ全ク之ヲ存スルコトナシ然ラハ則チ原判決ハ虚無ノ供述記載ヲ被告ノ罪證ニ供シタルノ違法アルモノトスト云フニ在レトモ◎記録ヲ査スルニ原判決證據理由ニ大橋喜一郎第二囘豫審調書中ノ供述記載トシテ擧示スルモノハ同人ノ第三囘豫審調書ニ正ニ之ト符合スル趣旨ノ記載アルカ故ニ判文ニ第二囘ト掲クルモノハ第三囘ノ誤記ナルコト洵ニ明白ナリ從テ原判文ニハ所論ノ如キ違法アルコトナク論旨ハ理由ナシ
(二)原判決ハ其事實理由ニ於テ染方下職人ニ對スル賃金ノ支拂ヲ被告ノ業務ナリト説示シ以テ被告カ其占有セル賃金ヲ擅ニ自家ノ用途ニ費消シタルハ業務上ノ横領罪ナリト認定セラレタレトモ其證據理由ヲ熟閲精査スルニ犯罪當時ニ於テ染方下職人ニ對スル賃金ノ支拂カ被告ノ業務ナリトノ點ハ全ク説示シアルコトナシ然ラハ則チ原判決ハ證據ニ依リテ罪トナルヘキ事實ヲ認メタル理由ヲ明示セス刑事訴訟法第二百三條第一項ニ違背セル不法ノ裁判ナリト云フニ在レトモ◎原判決ハ其擧示スル被告ニ對スル司法警察官聽收書ノ記載被告ノ豫審調書ノ記載大橋喜一郎豫審調書ノ記載ヲ綜合シテ之ヲ認定シタルモノナレハ論旨ハ理由ナシ
(三)原判決ノ事實理由ハ其前段ニ於テ「被告ハ云云大橋喜一郎ト共同シ同人名義ヲ以テ云云ノ業ヲ營ミ喜一郎ハ營業資本ヲ出金シ」ト記載セラルルカ故ニ之ニ依レハ本件ノ營業ハ實際被告ノ營業ニシテ喜一郎ハ只被告ニ名義ヲ藉シ資本ヲ出シタル關係ニ過キサレハ其資金タルヤ營業者タル被告カ出資者タル喜一郎ニ對スル債務トシテ返濟ノ責任アルモ其處分ノ權限ハ固ヨリ被告ニ存スル趣旨ナルニ拘ラス其後段ニ至リ右營業費ノ一部ヲ自家ノ用途ニ費消シタル被告ノ行爲ヲ以テ横領罪ヲ成立スト説示セラレタルハ事實説明ノ前後相矛盾セル理由不備ノ裁判タルヲ免レス(以上論旨前段)若シ又本件ノ營業ヲ以テ被告ト喜一郎ト共同シタル組合的事業ナリトセハ其營業資金ハ全部組合員タル兩名ノ共有ニ屬スルモノナレハ被告ノ持分ニ屬スル部分ノ金額ニ付テハ假リニ被告カ自家ノ用途ニ費消スルモ即チ之レ自己ノ所有金額ヲ費消シタルニ過キサレハ未タ遽ニ横領罪ヲ構成スヘキ筋合ニアラス然ルニ原判決ハ其事實理由ノ後段ニ於テ「右共同營業費中ヨリ支出スヘキ金額ヲ費消シタリ」ト説示シ乍ラ兩名ノ共有財産中被告ノ持分如何ヲ毫モ判示スル所ナクシテ直ニ全額ノ横領罪ヲ構成スト判示シタルハ違法ノ裁判ナリ(以上論旨後段)ト云フニ在レトモ◎論旨後段カ理由ナキコトハ被告上告趣意書第一點ニ對スル説明ニ依リ自ラ了解スヘシ又論旨前段カ原判決ノ判示ニ副ハサル攻撃ナルコトハ同上説明ニ依リ自ラ明ナレハ上告ノ理由ト爲スニ足ラス
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事矢野茂干與明治四十四年二月九日大審院第二刑事部
明治四十三年(レ)第二七七三号
明治四十四年二月九日宣告
◎判決要旨
- 一 共有金の分割前に於ては共有者の一人は持分を有するに過ぎざるを以て若し自己の為めに之を費消したるときは其費消せる金銭の全額に付き横領罪を構成するものとす。
右横領被告事件に付、明治四十三年十一月十六日名古屋控訴院に於て言渡したる判決に対し被告は上告を為したり。
因で判決すること左の如し
理由
木件上告は之を棄却す
被告上告趣意書に縷縷叙述する所あるも其要旨は第一点原審は被告と大橋喜一郎との間に共同の営業関係あることを認め該共同営業契約の内容に付き毫も説明を加へざる違法あり。
何となれば組合員たる被告が共同営業の資金を費消したるに因り横領罪が成立するや否やは一に其契約の内容如何に依りて定まるものなればなり。
若し又本件の場合に其契約の内容に付き何等の特約なかりしものとせば法律の定むる所に依り之を決するの外なく。
従て大橋喜一郎が出資したる金五千四百十八円十五銭は民法第六百六十八条に依り一応被告と大橋喜一郎との共有となるべきが故に原判決に認むる下職人の支払残額千二百九十三円五銭も亦両人の共有となるを以て被告が之を費消したればとて宛かも他人所有の千二百九十三円五銭を費消したるものの如く事実を認定したる原判決は不当なり。
次に又組合資本は契約に別段の定めなければ被告に保管権なしと云ふことを得ず。
寧ろ組合員は何れも其権限ありと見るを至当とす。
果して。
然れば被告は次の損益計算期迄は之を大橋喜一郎に引渡す義務なく。
而して損益計算期に付、確たる定なきを以て双方協議の上之を定むる迄は被告は之を引渡す義務なし。
又計算期来りたりとするも同時履行の抗弁権に因り大橋喜一郎より計算を為す迄は被告より計算を為すの義務なし、且、仮りに計算の結果被告より大橋喜一郎に引渡すべき金員ありとするも若し喜一郎より受取るべき金員あらば其受領迄は上告人より引渡すべき金員は双方商人にして商行為に因り被告の占有に帰したる金員なるが故に商行為に因り生じたる相手方の債務の履行を受くる迄被告は之を留置する権利を有す。
然るに是等の相手方を尽すべき義務なきに拘はらず直に被告に本件の犯罪ありと認めたる原判決は不当なりと云ふに在れども◎原判決の判示事実に依れば被告は大橋喜一郎と共同し同人名義を以て呉服類の染方及其販売の業を営み喜一郎は営業資本を出金し被告は染方下職人に対する染色の依頼並に其賃金の支払等専ら染方に関する業務を担当し之に従事中染方下職人に支払ふべき賃金として右共同営業費中より支出すべき金額合計五千四百十八円十五銭を喜一郎より受取り其業務上占有中染方下職人に四千百二十五円十銭を支払ひ其残額金千二百九十三円五銭を自家の用途に費消し之を横領したるものにして右判示の趣旨に拠るに喜一郎及被告は各出資を為して共同の事業を営むことを約したるものなれば喜一郎の出資したる金五千四百十八円十五銭は喜一郎及被告の共有に属し被告は之を自己の為めに費消する権利なきに拘はらず該共有金中千二百九十三円五銭を業務上占有しながら擅に自己の為めに費消したるものなるが故に其費消の時に於て直に刑法第二百五十三条の横領罪を構成するや明なり。
従て原判決は罪となるべき事実の判示として毫も欠くる所あることなく、且、共有金の分割前に於て共有者の一人は持分を有するに過ぎざるを以て若し自己の為めに共有金を費消したるに於ては費消したる金銭の全額に亘り他人の権利を侵害したるものなるを以て其全額に亘り横領罪の成立すること疑を容れず。
故に原判決には所論の如き違法あることなく論旨は理由なし。
第二点縦被告が大橋喜一郎に引渡す義務ありたりとするも被告は同人の請求を俟たずして弁済期前に適法の弁済を為したる事実あるものなり。
然れば之を無視して千二百九十三円五銭を被告が横領したるものとしたる原判決は不当なりと云ふに在れども◎其理由なきことは前項の説明に依り自ら了解すべし。
第三点原院は右の如き弁済あり、且、相手方に債務履行義務ありたりとするも一旦組合の金員を費消したる以上は横領罪は成立するものなりとの意にて判決したるものとせんか誤れるものと云はざるべからず。
何となれば特定物を目的とする債務の場合に於ては或は然らん。
然れども本件の場合は被告が大橋喜一郎より金員を受取り残額を引渡すべき債務を負へるは決して其受取りたる金員其物を返還せざる可からざる義務を負へるものにあらず。
普通の金銭債務を負へる場合と同じく弁済期に於て他の金銭を以て弁済することを得べきものにして是れ被告の権利なり。
(民法第四百二条)民法は此権利を被告に与へたると同時に弁済期以前に於ては被告に曩きの受領金を費消することをも許せるものと云はざるべからず。
然らざれば法律が他の金員を以て弁済することを許せる趣旨を解するを得ざるに至る故に弁済期の至らざる本件の場合に金員の費消ありたればとて直に横領罪ありと云ふを得ず。
然るに原審が弁済期を確かめず又弁済期経過しながら弁済するを得ざりし事実を確かめず単に費消の事実のみを見で特定物を目的とする債務に於けるが如く費消と同時に犯罪ありとしたるは不法なりと云ふに在れども◎原判決の認むる事実に依れば大橋喜一郎の出資したる金銭は喜一郎及被告に於て之を共有し被告は之を自己の為めに費消する権利を有せざること前出被告上告趣意書第一点に対し説示する所の如し本論旨は原判決の認めざる事実を主張し之が攻撃を試むるものなれば上告の理由と為すに足らず
弁護人井上保男同三浦倫吉上告趣意書原審判決理由を査するに原審に於ては大坂控訴院に於ける第一回公判始末書中被告の供述記載を採で以て断罪の資料に供せられたり。
然れども本件は最初被告より大坂控訴院の判決を不当とし上告申立を為し其結果御院に於ては被告の上告其理由あるものとし大坂控訴院の判決を破毀せられ更に名古屋控訴院へ移送せられたるに付、其移送を受けたる原審即ち名古屋控訴院に於ては通常の控訴を受けたる場合と同じく事実憶法律の点に付、全部の覆審をなすべきものにして畢竟此場合には大坂控訴院に於ける第二審の手続と其判決とは破毀の判決に依りて消滅し、而して第一審の判決及之に対する被告の控訴のみ残存することとなるが故に既に消滅に帰したる大坂控訴院に於ける公判手続の記載ある第一回の公判始末書中被告の供述記載を採で断罪の資料に供すること能はざるや論を俟たず。
然るに原審に於ては之を証拠に援用したるは其採証の点に於て違法あるを免れざるものとすと云ふに在れども◎記録を査するに大坂控訴院の為したる第二審判決を曩きに本院に於て破毀したることは洵に所論の如しと雖も之が為めに適法に為されたる同控訴院の公判手続が全部無効となるべき謂はれなく所論同控訴院第一回公判始末書は同控訴院公廷に於て適法に行はれたる公判に於ける被告の供述を掲載したるものにして、且、適法に作成せられたるものなれば書類として有効なるは論を俟たず。
原院が該公判始末書中被告供述の記載を罪証に供したるは違法にあらず。
論旨は理由なし。
弁護人音羽耕逸上告趣意書(一)原判決は大橋喜一郎の第二回予審調書中の供述記載を其証拠理由に引用せられたれども同人の第二回予審調書を査閲するに右引用せられたる中「職方へ四千九百八十円支払ひたることとなり」(原判決原本中記録第四六七丁裏面初行より第三行まで参看)との趣旨の供述記載は之れを存すれども(証人大橋喜一郎第二回訊問調書中記録第九二丁裏面第四行より第九行まで参看)其以下爾余の供述記載は全く之を存することなし然らば則ち原判決は虚無の供述記載を被告の罪証に供したるの違法あるものとすと云ふに在れども◎記録を査するに原判決証拠理由に大橋喜一郎第二回予審調書中の供述記載として挙示するものは同人の第三回予審調書に正に之と符合する趣旨の記載あるが故に判文に第二回と掲ぐるものは第三回の誤記なること洵に明白なり。
従て原判文には所論の如き違法あることなく論旨は理由なし。
(二)原判決は其事実理由に於て染方下職人に対する賃金の支払を被告の業務なりと説示し以て被告が其占有せる賃金を擅に自家の用途に費消したるは業務上の横領罪なりと認定せられたれども其証拠理由を熟閲精査するに犯罪当時に於て染方下職人に対する賃金の支払が被告の業務なりとの点は全く説示しあることなし然らば則ち原判決は証拠に依りて罪となるべき事実を認めたる理由を明示せず刑事訴訟法第二百三条第一項に違背せる不法の裁判なりと云ふに在れども◎原判決は其挙示する被告に対する司法警察官聴収書の記載被告の予審調書の記載大橋喜一郎予審調書の記載を綜合して之を認定したるものなれば論旨は理由なし。
(三)原判決の事実理由は其前段に於て「被告は云云大橋喜一郎と共同し同人名義を以て云云の業を営み喜一郎は営業資本を出金し」と記載せらるるが故に之に依れば本件の営業は実際被告の営業にして喜一郎は只被告に名義を藉し資本を出したる関係に過ぎざれば其資金たるや営業者たる被告が出資者たる喜一郎に対する債務として返済の責任あるも其処分の権限は固より被告に存する趣旨なるに拘らず其後段に至り右営業費の一部を自家の用途に費消したる被告の行為を以て横領罪を成立すと説示せられたるは事実説明の前後相矛盾せる理由不備の裁判たるを免れず(以上論旨前段)若し又本件の営業を以て被告と喜一郎と共同したる組合的事業なりとせば其営業資金は全部組合員たる両名の共有に属するものなれば被告の持分に属する部分の金額に付ては仮りに被告が自家の用途に費消するも。
即ち之れ自己の所有金額を費消したるに過ぎざれば未だ遽に横領罪を構成すべき筋合にあらず。
然るに原判決は其事実理由の後段に於て「右共同営業費中より支出すべき金額を費消したり。」と説示し乍ら両名の共有財産中被告の持分如何を毫も判示する所なくして直に全額の横領罪を構成すと判示したるは違法の裁判なり。
(以上論旨後段)と云ふに在れども◎論旨後段が理由なきことは被告上告趣意書第一点に対する説明に依り自ら了解すべし。
又論旨前段が原判決の判示に副はざる攻撃なることは同上説明に依り自ら明なれば上告の理由と為すに足らず
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す
検事矢野茂干与明治四十四年二月九日大審院第二刑事部