明治四十一年（れ）第八二〇號
明治四十一年十一月九日宣告
◎判決要旨
- 一 文書僞造行使罪ノ成立ニハ文書ノ僞造及ヒ行使アルコトノ外其行使カ實害ヲ生シ又ハ生シ得ヘキモノタルコトヲ必要トスルモ被告ニ於テ他人ヲ害シ又ハ自己ヲ利スルノ意思アリタルヤ否ヤハ問フ所ニ非ス
公訴上告人
私訴被上告人 小田井敏夫
私訴上告人 株式會社可兒銀行
代理人 下條勇三郎
右私書僞造行使委託金騙取被告事件ニ付明治四十一年七月十日名古屋控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ被告ハ公訴ニ付民事原告人ハ私訴ニ付各上告ヲ爲シタルニ因リ判決スルコト左ノ如シ
理由
本件公訴ノ上告ハ之ヲ棄却ス
私訴ニ關スル原判決ヲ破毀シ更ニ審判ヲ爲サシムル爲メ事件ヲ大阪控訴院民事部ニ移送ス
被告上告趣意書同判決ニ在ル判示第一乃至第五ノ事實ハ上告人カ株式會社可兒銀行伏見出張店主任トシテ勤務中記帳及算數ノ智識ニ乏シク或ハ帳簿ノ記載ヲ誤リ或ハ之ヲ遺脱シ帳簿上ノ計算符合セサリシコトアルヨリ強テ之ヲ符合セシメンカ爲メ此所爲ヲ爲シタルモノトハ原院ノ認定事實ナリ然ラハ上告人ニ於テ出納簿ニ虚僞ノ記入ヲナシ若クハ傳票ヲ作成セシハ何等他ヲ害シ又ハ自己ヲ利スルノ意ニ出テタルモノニアラサルニ刑法第二百十條第一項ヲ適用シタルハ擬律ノ錯誤ナリト信スト云フニ在レトモ◎文書僞造行使罪ノ構成要件トシテハ文書ノ僞造及ヒ行使アルコトノ外其行使カ實害ヲ生シ又ハ生シ得ヘキモノタルコトヲ必要トスルモ被告ニ他人ヲ害シ又ハ自己ヲ利スルノ意思アリタルコトハ犯罪構成ノ要件タル事實ニ屬セサルモノトス而シテ本件ニ在テ被告カ其管掌ニ係ル銀行ノ帳簿類ニ不實ノ記載ヲ爲シタル所爲ハ實害ヲ生スヘキモノナルコトハ論ヲ俟タス何トナレハ被告ノ爲シタル不實ノ記載ハ其記載ニ信ヲ置キタル可兒銀行ヲ事實ノ錯誤ニ陷レ之ヲシテ不測ノ損害ヲ被ラシムルノ危險アルヲ以テナリ故ニ本論旨ハ其理由ナシ
被告辯護人佐々木文一上告趣意擴張書原院判決ノ證據トシテ引用セラレタル證人細野享之助第一囘豫審調書竝ニ證人可兒平一第一囘豫審調書ニヨルニ長濱豫審判事トシテ取調ヲナスニ當リ刑事訴訟ノ規定ニ從ヒ宣誓セシメタル旨記載アルモ其宣誓書ハ何レモ署名ノミニシテ捺印ナク又捺印ヲナシ能ハサル旨ノ記載モ無之ニヨリ刑事訴訟法第百二十二條第二項ノ形式ヲ缺キタルモノニシテ從テ其豫審調書ハ全然無效ナルニモ拘ハラス是ヲ採テ斷罪ノ證ニ供セラレタルハ違法ニシテ原院判決ハ破毀ヲ免カレサルモノト信スト云フニ在レトモ◎刑事訴訟法第二十一條改正ノ結果一私人カ書類ニ署名捺印スヘキ場合ニ於テハ其署名アルノミヲ以テ足リ捺印ハ其作成ニ要スル方式ニ屬セサルコトトナリタルヲ以テ本件被告ノ署名アル宣誓書ハ有效ニシテ其捺印竝ニ其捺印スルコト能ハサルノ理由ヲ缺クモ之カ爲メ宣誓書ノ效力ヲ妨クルコトナシ故ニ本論旨モ亦理由ナシ
民事原告人代理人下條勇三郎上告趣意擴張書第一點本件豫審終結決定書第一乃至第四十四ノ行爲カ事實ニ適合セサル虚僞ノ記載ナルコトハ被上告人ノ認メテ爭ハサル所而シテ右等ノ行爲カ雇人トシテ盡スヘキ誠實ノ義務ニ違背シタルモノナルコトハ一點疑ナキ所ニシテ右四十四箇ノ行爲ノ爲メ帳簿上六千餘圓符合セサル金員ノ生シタルコトハ被上告人ノ爭ハサル所只被上告人ハ右等ノ金員ハ記帳ニ拙ナキ爲メ錯誤等ニヨリ不足ヲ生シタル場合之レヲ補足スル爲メ不正ノ記載ヲ爲シタルニ止マリ銀行ヘ損害ヲ生セシメタル事實ナシトノ主張ナリ然ルニ右等虚僞ノ記載ノ儘ナル帳簿ニヨリ其計算ニ基キ引繼カルルトキハ不明ノ金額ハ結局銀行ノ損害ニ歸スヘキ筈ナリ故ニ被上告人ニ於テ之レカ責任ヲ免カレントセハ右等ノ事實ニ適合セサル不正ノ記載ハ如何ナル帳簿上ノ誤記ヨリ生シタルモノニシテ結局銀行ノ損害ニ歸セストノコトヲ被上告人ニ於テ指摘立證セサル可カラス然ルニ原院ハ右等ノ場合尚ホ上告人ニ於テ損害アルコトヲ立證セサル可カラサルカ如クニ認定シ上告人ノ請求ヲ棄却セラレタルハ立證責任ヲ轉倒スル不法ノ判決ナリト云フニ在リ◎依テ按スルニ帳簿ノ記載事項ハ其記録者ニ對シ證據力ヲ有スルモノニシテ記録者ハ反證アレハ格別然ラサレハ其記載ヲ不精確ナリトシテ之レヲ否認スルコトヲ得サルハ證據法ノ原則ナリ而シテ本件ニ在テ被告カ其管掌ニ係ル金錢ノ出納ヲ帳簿ニ記載スルニ當リ其收支ノ計算ヲ符合セシムル爲メ虚僞ノ支出ヲ帳簿ニ記載シタルコトハ原院ノ認ムル所ノ事實ナレハ茲ニ帳簿ノ收入ト仕拂トノ間ニ齟齬ヲ生シ帳簿ニ記載アル虚僞ノ支出ニ相當スル分ハ仕拂不足ノ金額トシテ被上告人ヨリ之ヲ上告人ニ引繼クヘキモノナルコトハ原院ノ認メタル事實關係ヨリ當然生スル結果ニシテ此事實ヲ基礎トシテ被上告人ニ賠償ノ責任アリト主張スル上告人ハ擧證ノ責任ヲ盡了シタルモノト謂ハサルヘカラス從テ被上告人カ其帳簿ノ記載ハ不精確ニシテ錯誤ニ出テタルモノナリト主張シ其帳簿ノ記載ヨリ生スル責任ヲ免カレントスルニハ單ニ口頭ヲ以テ主張シタルノミヲ以テ足レリトセス證據ヲ擧ケテ之ヲ確立セサルヘカラス然ルニ原院カ却テ上告人ニ於テ擧證ノ責任ヲ盡ササルモノトシ且漫然其帳簿ノ記載ヲ以テ錯誤ナリト判示シ上告人ノ請求ヲ棄却シタルハ失當ニシテ上告論旨ハ理由アリ原判決ハ破毀ヲ免カレサルモノトス既ニ此點ヲ以テ原判決ヲ破毀スル以上ハ其他ノ上告論旨ニ對シテハ一一説明ヲ爲スノ要ナシ
右ノ理由ナルヲ以テ本件公訴ニ付テハ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ私訴ニ付キテハ同法第二百八十六條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事棚橋愛七干與明治四十一年十一月九日大審院第二刑事部
明治四十一年（レ）第八二〇号
明治四十一年十一月九日宣告
◎判決要旨
- 一 文書偽造行使罪の成立には文書の偽造及び行使あることの外其行使が実害を生じ又は生じ得べきものたることを必要とするも被告に於て他人を害し又は自己を利するの意思ありたるや否やは問ふ所に非ず
公訴上告人
私訴被上告人 小田井敏夫
私訴上告人 株式会社可児銀行
代理人 下条勇三郎
右私書偽造行使委託金騙取被告事件に付、明治四十一年七月十日名古屋控訴院に於て言渡したる判決に対し被告は公訴に付、民事原告人は私訴に付、各上告を為したるに因り判決すること左の如し
理由
本件公訴の上告は之を棄却す
私訴に関する原判決を破毀し更に審判を為さしむる為め事件を大坂控訴院民事部に移送す
被告上告趣意書同判決に在る判示第一乃至第五の事実は上告人が株式会社可児銀行伏見出張店主任として勤務中記帳及算数の智識に乏しく或は帳簿の記載を誤り或は之を遺脱し帳簿上の計算符合せざりしことあるより強で之を符合せしめんか為め此所為を為したるものとは原院の認定事実なり。
然らば上告人に於て出納簿に虚偽の記入をなし若くは伝票を作成せしは何等他を害し又は自己を利するの意に出でたるものにあらざるに刑法第二百十条第一項を適用したるは擬律の錯誤なりと信ずと云ふに在れども◎文書偽造行使罪の構成要件としては文書の偽造及び行使あることの外其行使が実害を生じ又は生じ得べきものたることを必要とするも被告に他人を害し又は自己を利するの意思ありたることは犯罪構成の要件たる事実に属せざるものとす。
而して本件に在で被告が其管掌に係る銀行の帳簿類に不実の記載を為したる所為は実害を生ずべきものなることは論を俟たず。
何となれば被告の為したる不実の記載は其記載に信を置きたる可児銀行を事実の錯誤に陥れ之をして不測の損害を被らしむるの危険あるを以てなり。
故に本論旨は其理由なし。
被告弁護人佐佐木文一上告趣意拡張書原院判決の証拠として引用せられたる証人細野亨之助第一回予審調書並に証人可児平一第一回予審調書によるに長浜予審判事として取調をなすに当り刑事訴訟の規定に従ひ宣誓せしめたる旨記載あるも其宣誓書は何れも署名のみにして捺印なく又捺印をなし能はざる旨の記載も無之により刑事訴訟法第百二十二条第二項の形式を欠きたるものにして。
従て其予審調書は全然無効なるにも拘はらず是を採で断罪の証に供せられたるは違法にして原院判決は破毀を免がれざるものと信ずと云ふに在れども◎刑事訴訟法第二十一条改正の結果一私人が書類に署名捺印すべき場合に於ては其署名あるのみを以て足り捺印は其作成に要する方式に属せざることとなりたるを以て本件被告の署名ある宣誓書は有効にして其捺印並に其捺印すること能はざるの理由を欠くも之が為め宣誓書の効力を妨ぐることなし故に本論旨も亦理由なし。
民事原告人代理人下条勇三郎上告趣意拡張書第一点本件予審終結決定書第一乃至第四十四の行為が事実に適合せざる虚偽の記載なることは被上告人の認めて争はざる所。
而して右等の行為が雇人として尽すべき誠実の義務に違背したるものなることは一点疑なき所にして右四十四箇の行為の為め帳簿上六千余円符合せざる金員の生じたることは被上告人の争はざる所只被上告人は右等の金員は記帳に拙なき為め錯誤等により不足を生じたる場合之れを補足する為め不正の記載を為したるに止まり銀行へ損害を生ぜしめたる事実なしとの主張なり。
然るに右等虚偽の記載の儘なる帳簿により其計算に基き引継かるるときは不明の金額は結局銀行の損害に帰すべき筈なり。
故に被上告人に於て之れが責任を免がれんとせば右等の事実に適合せざる不正の記載は如何なる帳簿上の誤記より生じたるものにして結局銀行の損害に帰せずとのことを被上告人に於て指摘立証せざる可からず。
然るに原院は右等の場合尚ほ上告人に於て損害あることを立証せざる可からざるが如くに認定し上告人の請求を棄却せられたるは立証責任を転倒する不法の判決なりと云ふに在り◎依て按ずるに帳簿の記載事項は其記録者に対し証拠力を有するものにして記録者は反証あれば格別然らざれば其記載を不精確なりとして之れを否認することを得ざるは証拠法の原則なり。
而して本件に在で被告が其管掌に係る金銭の出納を帳簿に記載するに当り其収支の計算を符合せしむる為め虚偽の支出を帳簿に記載したることは原院の認むる所の事実なれば茲に帳簿の収入と仕払との間に齟齬を生じ帳簿に記載ある虚偽の支出に相当する分は仕払不足の金額として被上告人より之を上告人に引継くべきものなることは原院の認めたる事実関係より当然生する結果にして此事実を基礎として被上告人に賠償の責任ありと主張する上告人は挙証の責任を尽了したるものと謂はざるべからず。
従て被上告人が其帳簿の記載は不精確にして錯誤に出でたるものなりと主張し其帳簿の記載より生ずる責任を免がれんとするには単に口頭を以て主張したるのみを以て足れりとせず証拠を挙けて之を確立せざるべからず。
然るに原院が却て上告人に於て挙証の責任を尽さざるものとし、且、漫然其帳簿の記載を以て錯誤なりと判示し上告人の請求を棄却したるは失当にして上告論旨は理由あり原判決は破毀を免がれざるものとす。
既に此点を以て原判決を破毀する以上は其他の上告論旨に対しては一一説明を為すの要なし。
右の理由なるを以て本件公訴に付ては刑事訴訟法第二百八十五条に依り私訴に付きては同法第二百八十六条に依り主文の如く判決す
検事棚橋愛七干与明治四十一年十一月九日大審院第二刑事部
