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町田豐千代 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)

位階・勲等・功級
爵位・身分・家柄東京府士族
職業町田同族、東京煉瓦、菅川商會各(株)取締役
性別男性
生年月日慶應三年十月 (1867)
親名・続柄 町田實鞆の長男
家族母 ゑい 弘化二、四生、鹿兒島、士、田中七郞長女
妻 クニ 明四、一〇生、大阪、士、加藤延治二女、東京女子高等師範學校出身
男 實秀 明三一、五生、商學士、文部省在外硏究員
婦 純 明三八、一二生、長男實秀妻、東京、菊池長四郞五女、九段精華高等女學校出身
男 明 明三四、七生、法學士、三井物産會社員
女 文代 明四三、一二生、府立第三高等女學校在學
女 園子 明四三、一二生、聖心女子學院在學
記述部分(略伝)君は鹿兒島縣士族町田實鞆の長男にして慶應三年十月を以て生れ大正十一年家督を相續す明治二十三年東京高等商業學校を卒業し函館商業學校教頭に任ぜられ同二十五年其職を辭し山林其他各種の業務を經營し同三十年故西村勝三の櫻組に入りて支配人となり皮革事業に從事すること數年同組の株式會社となるや其常務取締役となり後大倉組及賀田組の製革事業を合併し日本皮革會社と稱するに至り擧げられて其の取締役となる又日本製靴會社取締役に選ばれ次で天鹽炭礦會社の經營に與り同四十三年日本製布會社の專務取締役として經營に任じ又同四十四年東京毛織の前身千住毛織物會社の整理を引受く同四十五年澁澤榮一子の推薦を以て浦賀船渠會社の社長となり大正八年造船事業調査の爲め歐米を漫遊し同十年病を以て其職を辭す其後一時明治紡織會社取締役社長に任じ其間東京鋲鎖製造東京製鐵日本鋼管シヤフト各會社の社長たりし事あり現時各種會社より退き前揭諸會社の重役として名あり
家族は尚孫秀春(大一五、一生、長男實秀長男)あり
長女千代子(明三二、一一生、東京女學館出身)は東大醫學士陸軍三等軍醫正宇都宮三郞に嫁し弟駒次郞(同三、二生、海軍少將)は其妻マス(同九、一二生、東京、石井賢吉長女)と共に分家せり
住所・電話番号東京、麻布、新龍土町一一 電青山五一五三
参照人物(親類)菊池長四郞、※春日井丈右衞門、※三野村安太郞
参照次数3 (※なし1)
読みまちだ
別名
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