菅原傳 (第8版 [昭和3(1928)年7月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正五位、勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 宮城縣在籍 | |
職業 | 衆議院議員(宮城縣選出) | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 文久三年八月 (1863) | |
親名・続柄 | 菅原應輔の二男 | |
家族 | 妻 隆 明一四、七生、東京、士、故大審院檢事川目亨一長女 男 傳一郞 明四二、八生 女 昌子 明三六、一一生 女 照子 明四〇、三生、東京女學館出身 | |
記述部分(略伝) | 君は宮城縣人菅原應輔の二男にして文久三年八月を以て生れ明治三十二年分れて一家を創立す先是同十二年大學豫備門に學び尋いで大學に進み專ら政治學を修む同十九年米國に航しパシフイツク大學に入り政治法律を硏究する事二年後自由黨に加盟し桑港に於て愛國同盟會を起し機關新聞十九世紀を發刊以て遙に本國民衆を警醒す偶々治安妨害を以て政府より禁止の厄に逢へり同二十六年布哇を經て再び米國に渡り同二十八年朝鮮を跋涉して歸朝す同三十一年以來衆議院議員に當選する事十二囘曩に兩院委員長に擧げらる立憲政友會所屬にして幹事協議員院内幹事院内總務本部總務常議員會々長として黨の樞機に參じ同會知名の士たり曾て人民新聞を創刊して其社長となり日露事件の功に依り勳四等旭日小綬章を授けられ大正三四年事伴の功に依り勳三等に陞敍し瑞寶章を賜る大正十年加藤内閣成立するに及び海軍參與官に任ぜられ正五位に敍せらる 家族は尚二男眞(明四五、四生)あり 二女治子(同三八、五生)は故貴族院議員村野常右衞門長男廉一に嫁せり | |
住所・電話番号 | 東京、四谷、南寺町二三 電四谷三二二七 | |
参照人物(親類) | ||
参照次数 | ||
読み | すがわら でん | |
別名 |
人事興信録
- 初版 [明治36(1903)年4月]
- 第4版 [大正4(1915)年1月]
- 第8版 [昭和3(1928)年7月]