緖方正清 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 正七位 | |
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爵位・身分・家柄 | 大阪府士族 | |
職業 | 醫學博士、緖方婦人科病院長、大阪化學研究所長 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 元治元年七月二十一日 (1864) | |
親名・続柄 | 中村恒藏の二男 | |
家族 | 妻 千重 明二一、二生、養父拙齋長女 養子 祐將 明二〇、五生、養女シナ夫、鳥取、平、伊東彌壽九郞三男 養女 シナ 明二五、一生、養子祐將妻、鳥取、平、福井久右衛門姪 | |
記述部分(略伝) | 君は愛媛縣平民中村恒藏の二男にして元治元年七月二十一日を以て生る曩に同縣平民辰巳家を相續せしも故ありて廢家し明治二十年六月先代拙齊の養子となり三十一年四月家督を相續せり君初め漢醫となり刀圭の術に從ひしも當時海外の文物制度漸く輸入し社會の風潮又草根木皮の調劑の迂なるを悟り飜然志を立て高松醫學校に入り優等を以て卒業し後大學醫學部別科に入り明治二十年卒業す同二十二年獨乙ヱナ大學に遊ひ又フライブルク大學に入り研究多年同二十四年ドクトルの學位を受く後ストラスブルヒ大學伯林大學維納府大學等に學ひ婦人科の薀奥を極め同二十五年歸朝し直に緖方病院に入り産科婦人科長となる同二十六年醫術開業試驗委員を命せられ現時尚ほ其任にあり又二十七年二月内務省産婆開業試驗委員を囑托せらる同三十五年緖方婦人科病院を開き自ら院長となり大阪化學硏究所長を兼ぬ同三十八年醫學博士の學位を受け著者亦頗る多し 養弟潤三(明一六、九生)は京都府平民井口又五郞の養子となり養弟平吉(同四、五生)は其妻子と共に分家し養妹重(同二四、一一生)も亦分家せり | |
住所・電話番号 | 大阪、東、今橋三ノ一八 電話本一九八四 | |
参照人物(親類) | ||
参照次数 | ||
読み | おがた まさきよ | |
別名 |