花井卓藏 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)
位階・勲等・功級 | 勳三等 | |
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爵位・身分・家柄 | 東京府平民 | |
職業 | 法學博士、衆議院議員(尾道市選出)、辯護士 | |
性別 | 男性 | |
生年月日 | 明治元年六月十二日 (1868) | |
親名・続柄 | 立原四郞右衛門の五男 | |
家族 | 妻 ひさ 明二、一〇生、東京、平、鈴木龜吉妹 養嗣子 斐夫 明三〇、一〇生、辯護士、石山彌平四男 女 稻子 明三三、九生 | |
記述部分(略伝) | 君は廣島縣士族立原四郞右衛門の五男にして明治元年六月十二日を以て備後三原町に生る同二十一年別に家を成して花井氏と稱す夙に東京に出てゝ和漢學並に英學を修む年十八歳にして英吉利法律學校を卒業し優等賞を得後東京法學院大學部に入り首席を以て卒業し同院學士の稱號を受け年二十歳にして辯護士試驗に登第し開業十數年の久しきに渉り最も刑事の辯護に長し明治四十二年法學博士の學位を受く方今特許代理業者及破産管財人たり甞て日本辯護士協會を創立し其評議員兼編輯主事となり又屢々東京辯護士會の評議員に富選し其議長となり國際法學會法制協會を創立して學術の研鑽に從ひ江湖俱樂部を設けて政治上の實地問題を研究し兼て法理精華及法學新報の編輯を主宰す明治二十三年國會の開設せらるゝや大成會に聘せられ法律部の政務主任たり其後法典問題の起るや極力之に反對し大に延期説を主張す曾て大隈伯の條約改正に反對し外人法官の非を唱道し輿論を喚起せり年僅に十七八歳なりき明治三十一年の總選擧に際し廣島縣より選はれて代議士となり現今に及ふ初め君の議會に臨むや院中第一の年少者たりしも技量才學衆を拔き毎に名聲を博しつゝあり同三十九年五月司法省より法律取調委員を囑託せられ四十年五月更に法律取調委員を仰付られ起草委員主査委員を命せられ新刑法編纂に與りて力あり又中央大學講師として刑法講座を擔任す君最も刑法國際法に精通し非常國際法其他の著書ありて世に行はる 家族は前記の外女美代(明三六、一二生)同壽惠(同四二、八生)男又夫(同四四、三生)同元夫(大二、一生)あり 同征夫(同三九、一生)は廣島縣人多田正象の養子となれり | |
住所・電話番号 | 東京、神田、錦町一ノ二 電話本局八八三 | |
参照人物(親類) | 石山彌平 | |
参照次数 | 1 (※なし1) | |
読み | はない たくぞう | |
別名 |