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久我通久 (初版 [明治36(1903)年4月] の情報)

位階・勲等・功級正二位、勳二等
爵位・身分・家柄侯爵、舊公卿
職業貴族院議員、護國生命保險株式會社顧問
性別男性
生年月日天保十二年十一月二十八日 (1842)
親名・続柄 久我建通の長男
家族父 建通 文化十二年十二月生
男 常道 明治六年二月生
女 靜子 明治十八年一月生
養叔母 誓圓 文化十一年一月生故一品伏見宮邦家親王三女
記述部分(略伝)當家は村上天皇の皇子具平親王の子右大臣師房より出づ師房初め資定王といふ姓源氏を賜ふ其孫雅實に至つて久我と稱す後二十三世を經正三位大納言敏通に至る敏通皇室の式微を慨し德大寺公城烏丸光胤等二十餘人と▲ひ竹内式部と謀り王政復古の大業を企てたりしも期未だ熟せずして發かれ空しく蟄謫の苦を䑛む明治二十四年十二月其義擧を追賞せられ正四位を贈らる其子信通より二代建通に至る
君は其長男なり天保十二年十一月二十八日京都に生る安政元年閏七月元服して昇殿を聽され安政五年正月從三位に叙せらる明治元年二月大和國鎭撫總督となり續いて同年七月東北遊擊軍將を仰付られ九條左大臣と共に東北各地に轉戰し兵氣を鼓舞し凾舘へ向ひ平定の功を奏し其の賞として永世二百石を賜はりたり同年十一月三等陸軍將を同月東京軍務官を同二年七月陸軍少將に同年十一月兵部少輔に同六年四月二十五日家督を相續し正三位に進む同九年五月華族第三部長を同年十二月華族第一部長を同十四年七月内務省准奏任御用を同年十二月宮内省准奏任御用を同月文學御用掛を命ぜられ同十七年四月勳四等旭日小綬章を賜ふ十八年四月元老院議官に同二十二年十二月從二位に同二十三年七月貴族院議員に同年十月麝香間祗候を同二十五年七月正二位に同二十六年三月宮中顧問官に兼任し同二十九年三月東京府知事に任ぜられ同三十年六月勳三等瑞寶章を賜ふ同三十二年二月鐵道國有調査委員を同年八月華族令第十八條に依り第四號事件評議員を仰付らる
男通保(明治十一年十月生)は分家して男爵を授けられ同俊通(同二十四年一月生)は東京府士族壹岐存養の嗣子となり女儀子(同六年一月生)は伯爵故大谷光勝養子勝通に節子(同十五年四月生)は子爵松浦靖に嫁し
富久子(同三十二年五月生)孫三千子(同二十七年十二月生)同千萬子(同三十一年六月生)同鶴子(同三十二年九月生)は家にあり
住所・電話番号東京市牛込區新小川町一ノ二 電話番町一一五〇
参照人物(親類)伏見宮家、男爵久我通保、伯爵大谷光瑩、子爵松浦靖、男爵北畠克通
参照次数5
読みこが みちつね
別名