貯金支拂請求事件
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法律新聞(新聞)7号11頁


東京市淺草區千束町二丁目三百六十三番地埼玉縣産婆業安藤フジ訴訟代理人平井恒之助氏より東京市日本橋區萬町十一番地東京貯藏銀行取締役池田謙三訴訟代理人齋藤隆夫氏に係る明治卅二年(ワ)第六一三號預金請取訴訟事件に付き東京地方裁判所第三民事部判事松岡義正島田淺吉鈴木英太郎の三氏は被告は原告に金三百五十圓及び之に對する明治三十一年九月廿八日より本訴執行濟に至る迄年六分五厘の利息を附加して支拂ふべし
訴訟費用は被告の負擔とす
原告は執行前に保證として現金百圓又は同價額の有價證券を供託したるときは此の判决を假りて執行することを得との判决を與へたり
(事實)原告訴訟代理人は被告に對し被告は原告に金三百五十圓并に明治三十一年九月廿八日より執行濟に至る迄年六分五厘の利子を付し拂渡すべし訴訟費用は被告の負擔とすとの判决并に執行前に保證を立てるに付假執行の宣告あらんことを求むと申立て其陳述の要旨は原告は曩に被告銀行に對し金圓を年六分五厘の利息の割合にて預けたる處被告は明治三十一年九月廿七日埼玉縣人戸谷孝照なるものが原告の實印及被告に對する預け金通帳を窃取し被告方に至り金三百五十圓を騙取したるを口述として原告に前記預け金の三百五十圓支拂を拒たり然れども這は全然理由なきことにして訴外人戸谷孝照の犯行に因り生じたる損害を負擔するものは被告たり又預け主たる原告は婦女なるに拘らず男子たる前示の戸谷に對し債務の有無を調査せずして預け金の支拂を爲したるは過失の尤も甚しきものと云はざるべからず依りて茲に本訴を提起したりと云ふ
被告訴訟代理人は原告の請求を棄却す訴訟費用は原告の負擔とすとの判决を求むと申立てゝ其の答辯の要旨は原告の主張事實は之を認む然れども被告は營業上不慮の損失を免かれんが爲め原告に對し他の取引者に對すると同じく當被告は通帖紛失等より生する損害は當被告一切其責に應ぜざる旨の契約を爲したり
從て被告は本訴に付き原告に對し何等の義務を負ふものにあらず又被告は原告に對し他の取引者に對すると同じく預金通帳の紛分等の節は速に保證人二人連印にて届出書を被告方に差出すべき旨を注意し置きたるにも拘らず原告は之れが届出を怠り爲めに本件の如き損害を發生せしめたるものなれば其の損害の原告に歸するは當然なり殊に訴外戸谷は本訴の債權凖占有者にして被告は善意にて之れが辯濟をなしたるものなれば其辯濟は法律上有效にして被告は原告に對し更に辯濟をなすの責なしと云ふにあり
被告訴訟代理人は立證として乙第一號乃至同第三號證を提出し原告訴訟代理人は乙各號證の成立を認め乙第一號證へ株式會社東京貯藏銀行預金規則第十二條を援用し又甲第一號證を立證として提出したり被告訴訟代理人は甲第一號證の成立を是認したり
(理由)原告の主張事實は被告の爭そはざるところなるを以て本訴請求の當否は被告が訴外戸谷孝照に爲したる支拂の有效なるや否やに依りて定めらるゝものと云ふを得べし依りて案ずるに訴外人戸谷は男子なれば一見して原告本人にあらざることを認識することを得故に被告は其義務履行するに當り前示戸谷が原告に代て辯濟受領の制策を有するや否を調査せざるべからざるは言を待たざる處なり然るに被告は右權限の有無の調査を爲さずして漫然原告の通帖と其の實印とに依據して前示戸谷に本件債務の辯濟をなしたる者にして又前示戸谷は原告に付て本件債權の辯濟を受領するの權限なき者なることは原告の主張するが如し從て本件の辯濟にして被告は原告に對し更らに辯濟を爲すの責を免れざるものと云ふべし被告は本件の責に應ぜざる旨を主張し又本件辯濟は原告が通帳紛失等の届出を怠りたるに基因するを以て原告の請求の不當なる旨を主張し乙各號證を以て立證すと主張すと雖も之れが爲めに被告は原告に對し本件債務の辯濟を爲すに當りて其受領制限の有無を調査して原告の通帖持參人に有效辯濟を爲すことを得るの權あるものと認むることを得ず又被告は前示戸谷本件債權を占有したるの事實なきを以て此點に於ては原告の請求は正當にして被告の防禦方法はあれども失當なるを以て前文の如く判决せり
被告は右の裁判に對し控訴を爲したるに東京控訴院民事第二部裁判長小山温判事齋藤十一郎高橋覺保田久三郎粟田松藏の五氏は控訴を棄却し第二審訴訟費用は控訴人の負擔とするの判决を與へたり
(事實)控訴人は東京地方裁判所が明治卅二年十月十九日言渡したる第一審判决を廢棄し被控訴人の請求を棄却す被控訴人は控訴人に對し金三百七十五圓七十四錢五厘并に之に對する明治三十二年十一月二日より裁判執行に至る迄年六分の金額を支拂ふべし訴訟費用は第一第二審共に被控訴人の負擔となすの判决并に控訴人に於て執行前若干の保證金を供託するときは此の判决は假りに執行することを得との假執行宣言を求むと申立て被控訴人は控訴を棄却し訴訟費用は控訴人に負擔せしめられ度申立てたり
當事者雙方が主張する事實上の關係は第一審判决に摘示する處と異ならざるを以て之を引用す尚控訴人は假執行宣言ありたる第一審判决に基き金三百七十五圓七十四錢五厘を被控訴人に支拂ひたるに付同人に對し該金額并に之に對する支拂の日以後本件執行濟に至る迄法定利率に基く損害金の辯濟を求むる次第なりと述べ被控訴人は控訴人より右金額を受取りたることは云はずと答へたり
立證として控訴人は乙第一三四號證を提出し鑑定人上柳清助三村君平兩名の訊問を申請して其の陳述を援用し被控訴人は乙第一號證を援用したり
(理由)被控訴人の主張事實は控訴人の是認する所なるに依り本件は控訴人か訴外戸谷孝照になしたる辯濟は有效なるや否やを判决するにあり案するに忠蓄銀行業を營み以て日々數百の顧客に接するものにありて一々此顧客の面識を知得することの難きは控訴人陳述する如く實際或は然らん然れ共訴外戸谷孝照は男子なれば婦人たる被控訴人記名の貯金通帖を持參したるに當りては一見して容易に其被控訴人に非らざることを看破し得べく斯る著しき兩者の差異は控訴人が如何なる事情の下にあるも之が誤認を許さゞるなり而して乙第一號證預金規則には第二條に預け金は預け主にあらざれば之を引出すことを得ずと定め第十二條に預け金を引出すときは通帳及び印形當銀行各通帳調印あるを持參あるべし云々若し代人を出すときは通帖及び委任状を持參すべしと定めあるを以て本人以外の塲合には委任状を要する趣旨たること甚だ明なり故に控訴人が戸谷に本件の預金を支拂ふには先づ同人が被控訴人に代て辯濟受領の權限ある委任状を所持するや否やを調査せるべからず然るに控訴人は之れが調査をなさずして漫然被控訴人の通帖と實印と以依據して拂渡しを爲したるものなれば其の辯濟は辯濟受領の權限を有せざるものに爲したる辯濟にして控訴人は被控訴人に對し更に有效なる辯濟をなすの責を免れざるものとす
控訴人は鑑定人上柳清助三村君平の陳述を援用して銀行の預り金の支拂を爲すに當り其の要求者より差出したる受取證の印章が豫て銀行に差出しある預け金の印鑑と同一なるときは要求者が本人なるや否やを調査せずして支拂を爲すことの習慣及び引出人が本人に非らざるときは本人の委任状を要する規定ある場合に於ても該引出人が通帖實印とを持參したる時は委任状を持參したるものと看做して取扱を爲すことの習慣ありと主張すと雖も右兩名は貯蓄銀行に非らざる銀行殊に本人に非らざるときは委任状を持參すべき旨の規定なき銀行に於ける預金拂渡しの取扱方を述べたるに過ぎざれば右二個の商習慣は證明せられざるものなり
次に控訴人は舊商法第六百二十三條に依り本件の受托者たる控訴人は寄托書即ち貯金通帖を提出して治金の還付を要求する戸谷の權利を調査する義務なしと云ふと雖も前示の如く容易に男女を識別して本人に非らざることを認知し得らるゝに當り本人に代りて受領の權限を有るすや否やを調査せざれば同條未段の甚しき怠慢あるものにより其責任を免るゝを得ず而して乙第四號證は右怠慢なかりしとの證據となるに足らざるなり
又控訴人は本件の辯濟を被控訴人が通帖紛失の届出を怠りたるに基因するを以て乙第一號證第十八條に依り被控訴人の請求は不當なる旨を主張すと雖も其怠りたるが爲要求者が預け主本人に非らざること明白なるに拘らず其受領權限の有無を調査せずして有效に辯濟を爲すとを得るの權を生ずるに至るものと認むるを得ざるなり
尚又控訴人は戸谷は本件債權の占有者なるを以て善意にて爲したる辯濟は有效なりと云ふと雖も同人は他人の貯蓄通帳と實印とを控訴人方へ持參して其の拂渡を要求したるまでにて本件債權を占有したる事實あらざるが故此抗辯も亦不當なりとす右の理由なるを以て被控訴人の請求は相當にして控訴を理由なきものと認め民事訴訟法第四百二十四條及び第七十七條に依り判决せり(三十三年十月四日言渡)