明治四十四年(オ)第二百八十七號
明治四十五年三月二十三日民事總合部判決
◎判決要旨
- 一 明治三十二年法律第四十號ハ失火ニ因リ物上ノ權利ヲ侵害スルモ失火者ニ重大ナル過失ナキ限リハ損害賠償ノ責ヲ負ハシメサル法意ニシテ不法行爲ニ因リテ生シタル損害賠償責任ニ關スル例外規定ナリトス
(參照)民法第七百九條ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但シ失火者ニ重大ナル過失アリタルトキハ此ノ限ニ存ラス(明治三十二年法律第四十號) - 一 家屋ノ賃借人カ失火ニ因リ其家屋ヲ燒失セシメ因テ之カ返還義務ヲ履行セサルトキハ一面ニ於テ不法行爲タルト同時ニ他ノ一面ニ於テハ債務ノ不履行ナリトス從テ民法第七百九條ノ責任ナキ場合ト雖モ同第四百十五條ノ責任ヲ免ルルコトヲ得ス
(參照)債務者カ其債務ノ本旨ニ從ヒタル履行ヲ爲ササルトキハ債權者ハ其損害ノ賠償ヲ請求スルコトヲ得債務者ノ責ニ歸スヘキ事由ニ因リテ履行ヲ爲スコト能ハサルニ至リタルトキ亦同シ(民法第四百十五條)
故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ權利ヲ侵害シタル者ハ之ニ因リテ生シタル損害ヲ賠償スル責ニ任ス(民法第七百九條)
上告人 島佐次兵衛
訴訟代理人 松林治義
被上告人 松田萬吉
右當事者間ノ損害賠償請求事件ニ付大阪控訴院カ明治四十四年六月八日言渡シタル判決ニ對シ上告人ヨリ一部破毀ヲ求ムル申立ヲ爲シ被上告人ハ上告棄却ノ申立ヲ爲シタリ
判決
原判決中訴訟費用ニ付「控訴人ノ闕席ニ因リテ生シタル部分ハ控訴人ノ負擔トシ」トアル部分ヲ除キ其他ヲ破毀シ更ニ辯論及ヒ裁判ヲ爲サシムル爲メ本件ヲ大阪控訴院ニ差戻ス
理由
上告理由第一點ハ原判決ハ法則ヲ不當ニ適用シタル違法ノ判決ナリ本件ニ付原判決ニ因リテ認メラレタル事實ニ據ルニ本件請求ノ原因ハ當事者間ノ家屋賃貸借契約ニヨリ賃借人タル被上告人カ賃借家屋明渡義務ニ付キ遲滯ニ付セラレツツアル間ニ被上告人ノ雇人杉山音五郎ナル者ノ過失ニ依リ該家屋ヲ燒失セシメ爲メニ被上告人ノ該家屋返還義務ニ付キ履行不能ノ状態ニ至ラシメタルヲ以テ賃貸人タル上告人ハ民法第四百十五條後段ノ規定ニ準據シ之カ賠償ヲ求ムト云フニ在リテ即チ上告人ハ被上告人カ自己ノ債務ニ付キ其責ニ歸スヘキ事由ニ因リ履行不能ニ至リタルモノナレハ債務不履行ヲ理由トシテ損害賠償ヲ求ムルニ在ルコト一點ノ疑ナキ所タリ而シテ第一審裁判所ハ證據調ノ結果ニ基キ如上ノ事實全部ヲ是認シ被告タル被上告人ニ賠償ノ責任アルモノトシテ之ニ敗訴ノ判決ヲ言渡シタリ然ルニ原院ハ亦其事實ヲ是認シナカラ法則ノ適用ニ關シ明治三十二年三月七日公布法律第四十號失火ノ責任ニ關スル規定ハ啻ニ民法不法行爲ノ規定ニ對シテ其適用アルノミナラス凡ソ失火ヲ理由トシテ損害賠償ヲ請求スル總テノ場合ニ適用アルモノナリトノ見解ニ基キ從テ本件ノ如ク債務者ノ履行不能ニ因ル債務不履行ヲ原因トスル損害賠償ノ場合ニモ亦該法律ノ適用アルモノニテ控訴人タル被上告人ニ重大ナル過失アリタリトノ立證ナキ限リ賠償ノ責任ヲ生セストノ理由ニ據リ第一審判決ヲ變更シテ被控訴人タル上告人ニ敗訴ノ判決ヲ言渡シタルモノナリ此原院判決ノ法律上ノ判斷ハ明カニ明治三十二年法律第四十號ノ立法ノ精神ヲ沒却シ其明文ノ規定ヲ無視シ又民法上債務ノ不履行ト不法行爲トノ區別ヲ誤リタル重大ナル不法アルモノナリトス請フ先ツ試ミニ明治三十二年法律第四十號ノ正文ノ規定ヲ見ヨ「民法第七百九條ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス云云」トアルニ非スヤ而シテ民法第七百九條ハ不法行爲ノ規定ニシテ契約上ノ責任ノ規定ニ非ス凡ソ例外規定ハ嚴格ニ解スヘク狹義ニ解スヘシトハ解釋學上古今ニ通シテ謬ラサルノ大則タリ然ルニ前掲法律ノ規定ヲ擴充シテ不法行爲以外尚ホ債務不履行ノ場合ニモ適用アリト爲スカ如キハ是レ法ヲ解スルニ非スシテ全ク法ヲ立ツルモノナリ妄モ亦甚タシカラスヤ加之之ヲ該法制定ノ沿革ニ照シ其立法ノ趣旨ヲ討ヌルモ亦其正文ノ辭句ト一致スヘキモノアリテ存ス即チ該法ハ元來舊刑法附則第五十九條但書ノ變身ニシテ失火者カ失火犯罪人即チ不法行爲者トシテ受クヘキ賠償責任ノ例外規定ナリ多言スルマテモナク失火者ニ其失火ニ基ク限リナキ延燒ノ賠償責任ヲ負擔セシムルハ少クトモ我國情ニ於テ穩當ナラサル制度ニシテ時ニ或ハ絶對ノ不可能事タルヘキハ爭フヘカラサル事理タルノミナラス本邦古來ノ慣習トシテモ亦其責任ヲ問ハサリシ所タリ故ニ舊刑法ニアリテモ其附則第五章ニ於テ諸種ノ賠償處分ヲ定メタル中第五十九條ニ「人ノ名譽若クハ殺傷ニ關シタル損害其他犯罪ノ爲メ現ニ生シタル損害ハ其賠償ヲ請求スルコトヲ得但失火ハ此限ニ在ラス」ト規定シ一般ノ犯罪即チ不法行爲ニ因リテ生シタル損害ハ其犯罪者即チ不法行爲者ニ賠償ノ責任アルモ特ニ失火罪即チ失火不法行爲ニ就テハ其責任ナキモノト爲シタリ輙チ此規定ノ趣旨ハ規定自身カ刑法規ノ一條タル點ニ於テ又其正文中「其他犯罪ノ爲メ」ナル辭句アル點ニ於テ其不法行爲ニ關スル例外規定タルコト殆ント何等疑ヲ挾ムヘキ餘地ナキ所ナリトス而シテ明治三十一年六月現行民法施行法制定セラルルニ至リ其第六十一條ニ於テ舊刑法附則ノ前記正條ハ削除セラルルコトトナリタルヨリ斯クテハ從來ノ慣習ニ反シ實際ニ非常ナル不便アリトシテ明治三十二年ニ至リ單行法ヲ以テ特ニ同一效力ヲ有スル法律第四十號ノ制定ヲ見ルニ至リシコトハ該法案ノ提出セラレタル當時ノ帝國議會ノ議事録中ニ散見スル法案提出ノ理由ニ據ルモ明カニシテ此事ハ御院判例(明治三十七年(オ)第四百八十號事件明治三十八年二月十七日言渡判決)ニ於テモ認メラレタル所タリ然ラハ則チ該法律ハ明カニ舊刑法附則第五十九條但書ノ變身御院判例ニ所謂「全然ノ復活」ニシテ從ツテ舊刑法附則第五十九條但書ノ法意正文カ前陳ノ如ク不法行爲ニ關スル特別規定タル以上其變身法復活法タル該法律モ亦其法意ニ於テ同シク不法行爲ノ例外規定タルヘキハ法理當然ノ結果ナリトス茲ニ至リテハ該法律カ特ニ其正文ノ劈頭ニ於テ殊更「民法第七百九條ノ規定ハ」ト明確ニシタルモ洵ニ故アル事ト信セラルル也飜テ之ヲ失火ノ實際ニ觀ルモ一朝過テ火ヲ失シ爲メニ延燒幾萬戸因テ生シタル損害幾千萬圓殆ント其數ヲ知ラスト謂フ底ノ事實ハ古今東西ニ其例固ヨリ乏シカラス而カモ其失火者カ失火前他人ニ對シテ有シタル何等カノ債務カ失火ヲ直接原因トシテ履行不能ニ至リタル額ノ巨萬ニ達シタリトノ實例ハ殆ント吾人ノ耳ニセサル所ナリトス(失火ノ爲メ貧窮シ借財ノ返濟ノ不能トナリシ場合ヲ含マサルハ勿論ナリ)而シテ失火責任例外法ノ主旨ハ一旦ノ過誤ニ因ル過失ノ責任時ニ或ハ不可能ノ責任ヲ負ハシムル事ノ不穩當ナリトノ理由ニ基クモノナルヲ以テ餘リ過大ナラサル責任特ニ必然伴フニ限ラサル責任タル債務不履行ノ場合ノ如キハ之ヲ包含セサル趣旨ナルコト推測スルニ難カラサル也之ヲ要スルニ明治三十二年法律第四十號ノ規定ハ其正文ノ辭句ニ於テ其制定ノ沿革ニ於テ又其立法ノ主旨ニ於テ何レヨリ觀察討究スルモ不法行爲ニ關スル例外規定タルニ止マリ之ヲ債務不履行ニ因ル損害賠償ノ場合ニマテ擴充適用スヘキモノニ非サルコトハ炳乎トシテ火ヲ看ルヨリモ明カニシテ毫モ疑義ヲ容ルルノ餘地ナキ所ナリトス論者或ハ曰ク「不法行爲ニ因リテ侵害セラルヘキ權利ハ敢テ物權等ノ所謂對世權ニ限ルモノニ非ス債權ノ如キ對人權モ亦不法行爲ノ目的タリ得ルモノナリ故ニ債務不履行ハ亦一種ノ不法行爲ニシテ從テ明治三十二年法律第四十號カ假リニ不法行爲ノ例外規定ナリトスルモ債務不履行ノ場合ニ之ヲ適用スルモ違法ニ非ス」ト抑モ不法行爲ニ因リテ侵害セラルヘキ權利ハ對世權ニ限ルヤ否ヤハ學界ノ多年ノ懸案ニシテ一朝ニシテ其是非當否ヲ妄定スヘカラサル事ニ屬ス而シテ余輩ノ信スル所ニヨレハ債權侵害ヲ以テ不法行爲ト爲スモ可ナリ乍併尚ホ且ツ債務不履行ハ不法行爲ニ非スト斷言スルモノナリ凡ソ故意又ハ過失ニヨリテ其行爲者ト他ノ特定人間ニ生スヘキ債權關係ニ二種アリ一ハ其行爲ニヨリテ新タニ生スル債權關係ニシテ他ハ其特定人トノ間ノ既存ノ債權關係ニ隨伴シテ生スル債權關係ナリ前者ハ即チ不法行爲ニ基ク關係ニシテ後者ハ即チ債務不履行ニ基ク關係ナリトス前者ハ新タニ生スルカ故ニ獨立セル債權ノ原因トナリ得ルモ後者ハ既存ノ債權關係ニ隨伴シテ生スルカ故ニ獨立セル債權原因ニ非スシテ唯其既存債權ノ效力トシテ觀察セラレ得ルノミ輙ハチ兩者ノ區別ハ法理上斯ク截然ト認識シ得ラルルモノニシテ各國ノ法制カ其編別上不法行爲ニ基ク賠償債權ハ獨立セル債權原因ノ部ニ規定セルニ拘ラス債務不履行ニ基ク賠償債權ハ單ニ債權ノ一效力トシテノミ規定セル所以亦實ニ茲ニ存スルナリ故ニ此論據ヲ前提トシテ考フレハ賠償債權關係カ當事者間ノ既存債權關係ニ基カスシテ新タニ發生スルモノナリトセハ其賠償責任ノ發生理由カ相手方ノ物權ヲ侵害シタルト又第三者ニ對スル債權ヲ侵害シタルトヲ問ハス均シク之ヲ不法行爲ノ範疇ニ入ルルモ可ナリ反之債務不履行ノ場合ハ前述セル如ク新タニ生スル關係ニ非サルカ故ニ如何ニシテモ之ヲ獨立セル債權原因トシテ不法行爲ト混同スルコトヲ許ササル也之ヲ設例セハ甲カ乙ニ對シテ債權ヲ有スル場合ニ丙カ故意ニ甲ノ乙ニ對スル債權實行ヲ不能ナラシメタリト假定スレハ此場合ニ丙カ甲ニ對シテ賠償責任アリトセハ其ハ債務不履行ニ基ク關係ニ非スシテ不法行爲ニ基クヤ明カナリ反之若シ乙自身カ前記ノ行爲ヲ爲シタリトスレハ此場合ニ乙カ甲ニ對シテ有スル賠償責任ハ債權ノ效力タルニ過キスシテ斷シテ不法行爲ニ基ク獨立原因的關係ニ非ス論シテ茲ニ到レハ則チ假リニ不法行爲ニ債權侵害アリトスルモ尚ホ且ツ債務不履行ハ不法行爲ニ非サルコト明カニシテ從ツテ反對論者ノ之ニ基ク立論モ亦不當ナルコト疑ナキ所タリ之ヲ要スルニ如何ナル方面ヨリ解釋スルモ明治三十二年法律第四十號ハ單ニ不法行爲ニ因ル賠償責任ノ場合ニノミ適用アルモノニシテ之ヲ擴充シテ本件ノ如キ債務不履行ニ因ル賠償責任ノ場合ニモ適用アリト爲スハ明カニ法則ノ適用ヲ誤リタルモノニシテ之ヲ敢テシタル原院判決ハ到底破毀ヲ免カルヘカラサルモノトスト云ヒ之ニ對スル被上告人ノ答辯ハ上告人ハ原判決ハ明治三十二年法律第四十號失火者ノ責任ニ關スル法律ハ啻ニ民法不法行爲ノ規定ニ對シテ之カ適用アルノミナラス失火ヲ理由トシテ損害賠償ヲ請求スル總テノ場合ニ之カ適用アルモノト解スルヲ相當トス從ツテ家屋ヲ明渡ス可キ義務アル賃借人カ其借家ニ失火シタル場合ニ賃貸人カ債務不履行ヲ理由トシテ損害賠償ヲ請求スルニハ賃借人ノ重大ナル過失アル事ヲ主張セサルヘカラスト判示シタレトモ明治三十二年法律第四十號ハ不法行爲ニ關スル例外規定ニシテ債務不履行ニ因ル損害賠償ニ適用スヘキモノニアラサルニ原判決カ事茲ニ出テサルハ法則ヲ不當ニ適用シタル違法ノ判決ナリト言フニアリ然レトモ法律第四十號ハ賃借人カ賃借家屋ニ失火シタル場合ニモ適用セラルヘキモノナルコトハ既ニ明治三十七年年(オ)第四八〇號明治三十八年二月十七日言渡御院判例ニ於テ判示セラレタルカ如ク敢テ不法行爲ニ關スル場合ノミニ限リテ適用スヘキモノニアラス故梅博士ノ如キモ上告人ノ所論ト同一ノ説ヲ發表シタル事アルモ之レ甚タ失當ノ見解ナリ反對論者ト雖モ天災ニ因ツテ履行カ不能トナリタルトキハ債務者ハ其義務ヲ免ルル事ハ之ヲ爭ハサルヘシ失火ヲ以テ天災ト同一視シタル事ハ我國古來ノ習慣ニシテ法制ニ於テモ亦其趣旨ヲ認メタリ舊刑法附則ハ犯罪ノ爲メニ生シタル損害ハ之ヲ賠償セシムルヲ原則トシ且ツ既ニ刑法カ失火者ヲ過失犯トシテ所罰スル以上ハ依ツテ生シタル損害ヲ賠償セシムヘキナレトモ失火ヲ天災ト同一視スルノ趣旨ヨリ失火ハ此限ニ在ラストノ例外ヲ規定シタルモノトス此例外規定ハ損害カ契約關係ニ基クモノト否ラサルモノトヲ問ハス失火ニ因ル損害ノ總テノ場合ニ適用セラルヘキモノナル事ハ上告人ト雖モ亦異論ナキ所ナラン法律第四十號ハ右刑法附則廢止ノ後其變身トシテ直ニ制定セラレタルモノニシテ唯新法ハ失火者ニ重大ナル過失アルトキハ損害賠償ノ責任ヲ負擔セシムヘシトシ幾分カ災害者ヲ保護シタル外失火損害ノ總テノ場合ニ適用スヘキ法意ニ至ツテハ同一ナリト謂ハサルヘカラス上告人ハ法律第四十號制定ノ沿革ニヨリ異説ヲ主張スト雖モ被上告人モ亦同シク其沿革上ヨリ上告人所論ノ非ナルコトヲ信ス又上告人ノ言フカ如シトスレハ本件ノ如キ場合ニ於テ何レモ失火ヲ原因トスルニ係ハラス債務履行不能トシテ請求スルトキハ損害賠償ハ其責任アリ過失トシテ請求スルトキハ損害賠償ハ其責任ナシトセサルヘカラス請求ノ方法トシテノ二者其效果ニ於テ差異アル所以ノ理由ハ如何ナル根據ニヨリ之ヲ説明シ得ルヤ如何ニシテモ被上告人ノ了解シ能ハサル所ナリヨシ又請求方法ヲ異ニスルニアラスシテ茲ニ一人ハ賃貸家屋ヲ賃借人ノ失火ニ因ツテ燒失シ他ノ一人ハ其隣接家屋ヲ所有シ同時ニ類燒シタルトキ失火者ノ重大ナル過失ナカリシトセハ賃貸人ハ賃貸借契約アリシカ爲メニ損害ヲ賠償セシムル事ヲ得自家住居者タル類燒人ハ損害ヲ囘復スル事ヲ得サルモノトセサルヘカラサルカ何故ニ法律ハ此場合一ヲ救濟シ一ヲ救濟セサルカ其差異アル所以ノ理由ハ何レニアリヤ若シ二者其間等差ヲ付スル事ヲ要スルモノトセハ失火スルカ如キ不注意者ニ家屋ヲ賃貸シタル幾分ノ過失アル賃貸人ハヨシ其損害ヲ賠償セシメ得サルモ寧ロ何等關係ナキ自家類燒者ニハ賠償ヲ得セシムルヲ要スヘキニ反對ニ賃貸人ノミ要償權アリトセサルヘカラサルハ如何ニシテモ被上告人ノ了解シ能ハサル所ナリ要スルニ法律第四十號ハ失火者ノ責任ニ關スル件ト題シタル一般失火ニ基ク損害賠償責任ニ關スル規定ニシテ失火者ニ重大ナル過失アルトキニ限リ其損害カ債務不履行ノ損害ナルモ其他ノ損害ナルモ賠償責任ヲ負擔セシムル法意精神ナル事ハ法制ノ沿革ヨリ見ルモ亦事理ノ上ヨリ之ヲ見ルモ其然ラサルヘカラサルコトヲ信ス上告人ノ所論ハ多樣ナルカ如キモ要スルニ法律第四十號ハ民法第七百九條ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス但失火者ニ重大ナル過失アルトキハ此限ニ在ラストアルヲ以テ失火者ノ重大過失ノ有無ニ據テ責任ノ有無ヲ定ムルハ不法行爲ノ場合ニ限リテ義務不履行ノ損害ノ場合ハ之ヲ含マスト言フニ在リ然レトモ失火トハ抑モ過失ノ火災ナリ必スヤ先ツ民法第七百九條ノ適用如何ノ規定ヲ要ス既ニ過失ノ責任ハ其過失カ重大ナル場合ニ限ルト規定シタル以上ハ失火即チ過失ノ火災ヲ理由トスル其他ノ賠償責任モ亦當然同一ナルヘキハ勿論ナルヲ以テ失火ヲ理由トスル債務不履行ノ損害賠償ニモ適用アルモノト解スルハ至當ナリ若又假リニ法文其意ヲ盡ササルモノトセハ裁判官ハ諸種ノ方面ヨリ之ヲ解釋シテ法律ヲ活用シ法ノ精神ヲ發揮セシメサルヘカラス我大審院カ嚮ニ學者ノ異説アルニ係ハラス斷然判例ヲ示シテ解釋ヲ統一シタルハ最高法衙トシテ一段ノ識見ヲ表顯シタルモノト言フヘシ畢竟上告人ハ一ニ啻文字ニ拘泥シテ法則ヲ誤解シタル爲メ原判決ヲ攻撃シ法則ヲ不當ニ適用シタリト言フモ原判決ハ何等違法ノ判決ニアラスト云フニ在リ
仍テ按スルニ民法第七百九條ハ故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ權利ヲ侵害シタル者即チ不法行爲者ニ其行爲ニ因リテ生シタル損害ノ賠償責任ヲ負ハシムル規定ナルコト多言ヲ竢タス而シテ明治三十二年法律第四十號ハ「民法第七百九條ノ規定ハ失火ノ場合ニハ之ヲ適用セス云云」トアリテ失火ニ因リテ他人ノ財物ヲ燒失セシメ其物上ノ權利ヲ侵害スルモ失火者ニ重大ナル過失ナキ限リハ民法第七百九條ヲ適用セサルコトヲ規定シタルモノナレハ失火者ノ過失重大ナラサリシトキハ不法行爲アルモノトシテ損害賠償ノ責任ヲ負ハシメサル法意ナルコト法文上明白ナリ凡ソ火ヲ失シテ他人ノ財物ヲ燒失セシムルハ過失ニ因リテ他人ノ權利ヲ侵害スルモノニ外ナラサルカ故ニ一般ノ原則ニ從ヘハ失火者ニ損害賠償ノ責任ヲ負ハシムヘキハ當然ナレトモ失火ノ場合ハ他ノ場合ト同一ニ律ス可カラサルモノアリ蓋シ何人ト雖モ自己ノ財物ヲ滅盡スヘキ過ナカランコトニ注意ヲ怠ラサルハ勿論ナルニ失火ハ殆ント毎ニ自己ノ財物ヲ燒失セシムルモノニシテ其過失ノ宥恕スヘキ事情ノ存スル場合少シトセス而カモ人家稠密ノ地ニ於テ偶火ヲ失スルヤ延燒幾百千戸ニ及フコトアリテ其損害素ヨリ測ル可カラス然ルニ失火者ニ此測ル可カラサル損害ヲ賠償スルノ責任ヲ負ハシムルハ酷ノ甚シキモノナリ故ニ火ヲ失シテ他人ノ財物ヲ燒失セシメタル場合即チ他人ノ燒失物上ノ權利ヲ侵害シタル場合ニ於テ失火者ニ損害賠償ノ責任ヲ負ハシメサルコト我邦古來ノ慣習ニシテ舊刑法附則第五十九條ニ犯罪ニ因リテ生シタル損害ニ付被害者ニ賠償ヲ請求スルノ權利アルコトヲ聲明シナカラ「但シ失火ノ場合ハ此限ニ在ラス」ト規定シタリシ所以ナリ而シテ明治三十二年法律第四十號ハ右刑法附則第五十九條但書ノ法意ヲ復活セシムル趣意ニ出テタルモノナレハ其沿革上ヨリ觀ルモ同法律ハ單ニ燒失物上ノ權利侵害ニ付失火者ニ重大ナル過失ナキ限リハ損害賠償ノ責任ヲ負ハシメサル法意ニシテ即チ不法行爲ニ因リテ生シタル損害ノ賠償責任ニ關スル例外規定ナルコト洵ニ明瞭ナリ抑賃貸人ト賃借人トノ間ニハ賃貸借契約ニ因リテ特別ナル債權債務ノ在存スルアリテ賃借人ハ賃貸人ニ對シ其債務ヲ履行セサルヲ得サルモノナレハ家屋ノ賃借人カ火ヲ失シテ其家屋ヲ燒失セシメ因テ之カ返還ノ義務ヲ履行セサルトキハ一面ニ於テハ過失ニ因リテ賃貸人ノ所有權ヲ侵害シタルモノニシテ不法行爲タルト同時ニ他ノ一面ニ於テハ自己ノ過失ニ因リテ債務ヲ履行スルコト能ハサルニ至リタルモノニシテ債務不履行タルコト勿論ナリ而シテ其不法行爲ニ付テハ明治三十二年法律第四十號ノ規定ニ依リ重大ナル過失ナキ限リ民法第七百九條ノ適用ナクシテ損害賠償ノ責任ナシト雖モ債務不履行ニ付テハ民法第四百十五條ノ適用アルヲ以テ過失ノ輕重ニ拘ハラス因リテ生シタル損害ヲ賠償セサル可カラサルコト更ニ多言ヲ竢タサルヘシ本件上告人ハ其所有家屋ヲ被上告人ニ賃貸シタルモノニシテ賃借人タル被上告人カ賃借家屋ノ返還ヲ遲滯セル間ニ於テ被上告人ノ雇人ナル杉山音五郎ノ過失ニ因リテ該家屋燒失シタル爲メ之カ返還ノ義務ヲ履行スルコト能ハサルニ至リタルモノナルコト即チ被上告人ノ債務不履行ヲ原因トシテ本訴ノ請求ヲ爲スモノニシテ其所有權ヲ侵害セラレタルコト即チ不法行爲ヲ以テ請求原因トセルモノニ非サルハ原院モ認ムル所ナレハ被上告人ノ債務不履行カ果シテ同人ノ責ニ歸スヘキ事由ニ因リテ履行不能ニ至リタルモノナル以上ハ前説明ノ如ク民法第四百十五條ヲ適用シテ被上告人ニ損害賠償ノ責任アルモノト爲ササル可カラス然ルニ原院カ明治三十二年法律第四十號ハ不法行爲ノ場合ノミニ限ラス債務不履行ノ場合ニモ適用アルヘキモノトシ同法律ヲ適用シテ被上告人ニ本訴請求ニ應スヘキ責任ナシト判定シタルハ法律ヲ不當ニ適用シタル不法アルモノニシテ原判決ハ破毀ヲ免レス
右ノ理由ナルヲ以テ他ノ上告論旨ニ對スル説明ヲ畧シ民事訴訟法第四百四十七條第一項第四百四十八條第一項ニ從ヒ主文ノ如ク判決ス但シ本件ハ本院ノ判例(明治三十七年(オ)第四百八十號事件ノ類)ト相反スル意見アルヲ以テ裁判所構成法第四十九條同第五十四條ニ依リ民事總部聯合シテ審判ス
明治四十四年(オ)第二百八十七号
明治四十五年三月二十三日民事総合部判決
◎判決要旨
- 一 明治三十二年法律第四十号は失火に因り物上の権利を侵害するも失火者に重大なる過失なき限りは損害賠償の責を負はしめざる法意にして不法行為に因りて生じたる損害賠償責任に関する例外規定なりとす。
(参照)民法第七百九条の規定は失火の場合には之を適用せず。
但し失火者に重大なる過失ありたるときは此の限に存らず(明治三十二年法律第四十号) - 一 家屋の賃借人が失火に因り其家屋を焼失せしめ因で之が返還義務を履行せざるときは一面に於て不法行為たると同時に他の一面に於ては債務の不履行なりとす。
従て民法第七百九条の責任なき場合と雖も同第四百十五条の責任を免るることを得ず。
(参照)債務者が其債務の本旨に従ひたる履行を為さざるときは債権者は其損害の賠償を請求することを得。
債務者の責に帰すべき事由に因りて履行を為すこと能はざるに至りたるとき亦同じ。
(民法第四百十五条)
故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者は之に因りて生じたる損害を賠償する責に任ず。
(民法第七百九条)
上告人 島佐次兵衛
訴訟代理人 松林治義
被上告人 松田万吉
右当事者間の損害賠償請求事件に付、大坂控訴院が明治四十四年六月八日言渡したる判決に対し上告人より一部破毀を求むる申立を為し被上告人は上告棄却の申立を為したり。
判決
原判決中訴訟費用に付、「控訴人の闕席に因りて生じたる部分は控訴人の負担とし」とある部分を除き其他を破毀し更に弁論及び裁判を為さしむる為め本件を大坂控訴院に差戻す
理由
上告理由第一点は原判決は法則を不当に適用したる違法の判決なり。
本件に付、原判決に因りて認められたる事実に拠るに本件請求の原因は当事者間の家屋賃貸借契約により賃借人たる被上告人が賃借家屋明渡義務に付き遅滞に付せられつつある間に被上告人の雇人杉山音五郎なる者の過失に依り該家屋を焼失せしめ為めに被上告人の該家屋返還義務に付き履行不能の状態に至らしめたるを以て賃貸人たる上告人は民法第四百十五条後段の規定に準拠し之が賠償を求むと云ふに在りて、即ち上告人は被上告人が自己の債務に付き其責に帰すべき事由に因り履行不能に至りたるものなれば債務不履行を理由として損害賠償を求むるに在ること一点の疑なき所たり。
而して第一審裁判所は証拠調の結果に基き如上の事実全部を是認し被告たる被上告人に賠償の責任あるものとして之に敗訴の判決を言渡したり。
然るに原院は亦其事実を是認しながら法則の適用に関し明治三十二年三月七日公布法律第四十号失火の責任に関する規定は啻に民法不法行為の規定に対して其適用あるのみならず凡そ失火を理由として損害賠償を請求する総ての場合に適用あるものなりとの見解に基き。
従て本件の如く債務者の履行不能に因る債務不履行を原因とする損害賠償の場合にも亦該法律の適用あるものにて控訴人たる被上告人に重大なる過失ありたりとの立証なき限り賠償の責任を生ぜずとの理由に拠り第一審判決を変更して被控訴人たる上告人に敗訴の判決を言渡したるものなり。
此原院判決の法律上の判断は明かに明治三十二年法律第四十号の立法の精神を没却し其明文の規定を無視し又民法上債務の不履行と不法行為との区別を誤りたる重大なる不法あるものなりとす。
請ふ先づ試みに明治三十二年法律第四十号の正文の規定を見よ「民法第七百九条の規定は失火の場合には之を適用せず。
云云」とあるに非ずや。
而して民法第七百九条は不法行為の規定にして契約上の責任の規定に非ず凡そ例外規定は厳格に解すべく狭義に解すべしとは解釈学上古今に通じて謬らざるの大則たり。
然るに前掲法律の規定を拡充して不法行為以外尚ほ債務不履行の場合にも適用ありと為すが如きは是れ法を解するに非ずして全く法を立つるものなり。
妄も亦甚たしからずや加之之を該法制定の沿革に照し其立法の趣旨を討ぬるも亦其正文の辞句と一致すべきものありて存す。
即ち該法は元来旧刑法附則第五十九条但書の変身にして失火者が失火犯罪人即ち不法行為者として受くべき賠償責任の例外規定なり。
多言するまでもなく失火者に其失火に基く限りなき延焼の賠償責任を負担せしむるは少くとも我国情に於て穏当ならざる制度にして時に或は絶対の不可能事たるべきは争ふべからざる事理たるのみならず本邦古来の慣習としても亦其責任を問はざりし所たり。
故に旧刑法にありても其附則第五章に於て諸種の賠償処分を定めたる中第五十九条に「人の名誉若くは殺傷に関したる損害其他犯罪の為め現に生じたる損害は其賠償を請求することを得。
但失火は此限に在らず」と規定し一般の犯罪即ち不法行為に因りて生じたる損害は其犯罪者即ち不法行為者に賠償の責任あるも特に失火罪即ち失火不法行為に就ては其責任なきものと為したり。
輙ち此規定の趣旨は規定自身が刑法規の一条たる点に於て又其正文中「其他犯罪の為め」なる辞句ある点に於て其不法行為に関する例外規定たること殆んど何等疑を挟むべき余地なき所なりとす。
而して明治三十一年六月現行民法施行法制定せらるるに至り其第六十一条に於て旧刑法附則の前記正条は削除せらるることとなりたるより斯くては従来の慣習に反し実際に非常なる不便ありとして明治三十二年に至り単行法を以て特に同一効力を有する法律第四十号の制定を見るに至りしことは該法案の提出せられたる当時の帝国議会の議事録中に散見する法案提出の理由に拠るも明かにして此事は御院判例(明治三十七年(オ)第四百八十号事件明治三十八年二月十七日言渡判決)に於ても認められたる所たり。
然らば則ち該法律は明かに旧刑法附則第五十九条但書の変身御院判例に所謂「全然の復活」にして従って旧刑法附則第五十九条但書の法意正文が前陳の如く不法行為に関する特別規定たる以上其変身法復活法たる該法律も亦其法意に於て同じく不法行為の例外規定たるべきは法理当然の結果なりとす。
茲に至りては該法律が特に其正文の劈頭に於て殊更「民法第七百九条の規定は」と明確にしたるも洵に故ある事と信ぜらるる也翻で之を失火の実際に観るも一朝過で火を失し為めに延焼幾万戸因で生じたる損害幾千万円殆んど其数を知らずと謂ふ底の事実は古今東西に其例固より乏しからず。
而かも其失火者が失火前他人に対して有したる何等かの債務が失火を直接原因として履行不能に至りたる額の巨万に達したりとの実例は殆んど吾人の耳にせざる所なりとす。
(失火の為め貧窮し借財の返済の不能となりし場合を含まざるは勿論なり。
)。
而して失火責任例外法の主旨は一旦の過誤に因る過失の責任時に或は不可能の責任を負はしむる事の不穏当なりとの理由に基くものなるを以て余り過大ならざる責任特に必然伴ふに限らざる責任たる債務不履行の場合の如きは之を包含せざる趣旨なること推測するに難からざる也之を要するに明治三十二年法律第四十号の規定は其正文の辞句に於て其制定の沿革に於て又其立法の主旨に於て何れより観察討究するも不法行為に関する例外規定たるに止まり之を債務不履行に因る損害賠償の場合にまで拡充適用すべきものに非ざることは炳乎として火を看るよりも明かにして毫も疑義を容るるの余地なき所なりとす。
論者或は曰く「不法行為に因りて侵害せらるべき権利は敢て物権等の所謂対世権に限るものに非ず債権の如き対人権も亦不法行為の目的たり得るものなり。
故に債務不履行は亦一種の不法行為にして。
従て明治三十二年法律第四十号が仮りに不法行為の例外規定なりとするも債務不履行の場合に之を適用するも違法に非ず」と。
抑も不法行為に因りて侵害せらるべき権利は対世権に限るや否やは学界の多年の懸案にして一朝にして其是非当否を妄定すべからざる事に属す。
而して余輩の信ずる所によれば債権侵害を以て不法行為と為すも可なり。
乍併尚ほ且つ債務不履行は不法行為に非ずと断言するものなり。
凡そ故意又は過失によりて其行為者と他の特定人間に生ずべき債権関係に二種あり一は其行為によりて新たに生ずる債権関係にして他は其特定人との間の既存の債権関係に随伴して生ずる債権関係なり。
前者は。
即ち不法行為に基く関係にして後者は。
即ち債務不履行に基く関係なりとす。
前者は新たに生ずるが故に独立せる債権の原因となり得るも後者は既存の債権関係に随伴して生ずるが故に独立せる債権原因に非ずして唯其既存債権の効力として観察せられ得るのみ輙はち両者の区別は法理上斯く截然と認識し得らるるものにして各国の法制が其編別上不法行為に基く賠償債権は独立せる債権原因の部に規定せるに拘らず債務不履行に基く賠償債権は単に債権の一効力としてのみ規定せる所以亦実に茲に存するなり。
故に此論拠を前提として考ふれば賠償債権関係が当事者間の既存債権関係に基かずして新たに発生するものなりとせば其賠償責任の発生理由が相手方の物権を侵害したると又第三者に対する債権を侵害したるとを問はず均しく之を不法行為の範疇に入るるも可なり。
反之債務不履行の場合は前述せる如く新たに生ずる関係に非ざるが故に如何にしても之を独立せる債権原因として不法行為と混同することを許さざる也之を設例せば甲が乙に対して債権を有する場合に丙が故意に甲の乙に対する債権実行を不能ならしめたりと仮定すれば此場合に丙が甲に対して賠償責任ありとせば其は債務不履行に基く関係に非ずして不法行為に基くや明かなり。
反之若し乙自身が前記の行為を為したりとすれば此場合に乙が甲に対して有する賠償責任は債権の効力たるに過ぎずして断して不法行為に基く独立原因的関係に非ず論して茲に到れば則ち仮りに不法行為に債権侵害ありとするも尚ほ且つ債務不履行は不法行為に非ざること明かにして従って反対論者の之に基く立論も亦不当なること疑なき所たり。
之を要するに如何なる方面より解釈するも明治三十二年法律第四十号は単に不法行為に因る賠償責任の場合にのみ適用あるものにして之を拡充して本件の如き債務不履行に因る賠償責任の場合にも適用ありと為すは明かに法則の適用を誤りたるものにして之を敢てしたる原院判決は到底破毀を免がるべからざるものとすと云ひ之に対する被上告人の答弁は上告人は原判決は明治三十二年法律第四十号失火者の責任に関する法律は啻に民法不法行為の規定に対して之が適用あるのみならず失火を理由として損害賠償を請求する総ての場合に之が適用あるものと解するを相当とす。
従って家屋を明渡す可き義務ある賃借人が其借家に失火したる場合に賃貸人が債務不履行を理由として損害賠償を請求するには賃借人の重大なる過失ある事を主張せざるべからずと判示したれども明治三十二年法律第四十号は不法行為に関する例外規定にして債務不履行に因る損害賠償に適用すべきものにあらざるに原判決が事茲に出でさるは法則を不当に適用したる違法の判決なりと言ふにあり。
然れども法律第四十号は賃借人が賃借家屋に失火したる場合にも適用せらるべきものなることは既に明治三十七年年(オ)第四八〇号明治三十八年二月十七日言渡御院判例に於て判示せられたるが如く敢て不法行為に関する場合のみに限りて適用すべきものにあらず。
故梅博士の如きも上告人の所論と同一の説を発表したる事あるも之れ甚た失当の見解なり。
反対論者と雖も天災に因って履行が不能となりたるときは債務者は其義務を免るる事は之を争はざるべし失火を以て天災と同一視したる事は我国古来の習慣にして法制に於ても亦其趣旨を認めたり。
旧刑法附則は犯罪の為めに生じたる損害は之を賠償せしむるを原則とし且つ既に刑法が失火者を過失犯として所罰する以上は依って生じたる損害を賠償せしむべきなれども失火を天災と同一視するの趣旨より失火は此限に在らずとの例外を規定したるものとす。
此例外規定は損害が契約関係に基くものと否らざるものとを問はず失火に因る損害の総ての場合に適用せらるべきものなる事は上告人と雖も亦異論なき所ならん法律第四十号は右刑法附則廃止の後其変身として直に制定せられたるものにして唯新法は失火者に重大なる過失あるときは損害賠償の責任を負担せしむべしとし幾分が災害者を保護したる外失火損害の総ての場合に適用すべき法意に至っては同一なりと謂はざるべからず。
上告人は法律第四十号制定の沿革により異説を主張すと雖も被上告人も亦同じく其沿革上より上告人所論の非なることを信ず。
又上告人の言ふが如しとすれば本件の如き場合に於て何れも失火を原因とするに係はらず債務履行不能として請求するときは損害賠償は其責任あり過失として請求するときは損害賠償は其責任なしとせざるべからず。
請求の方法としての二者其効果に於て差異ある所以の理由は如何なる根拠により之を説明し得るや如何にしても被上告人の了解し能はざる所なりよし又請求方法を異にするにあらずして茲に一人は賃貸家屋を賃借人の失火に因って焼失し他の一人は其隣接家屋を所有し同時に類焼したるとき失火者の重大なる過失なかりしとせば賃貸人は賃貸借契約ありしか為めに損害を賠償せしむる事を得自家住居者たる類焼人は損害を回復する事を得ざるものとせざるべからざるか何故に法律は此場合一を救済し一を救済せざるか其差異ある所以の理由は何れにありや若し二者其間等差を付する事を要するものとせば失火するが如き不注意者に家屋を賃貸したる幾分の過失ある賃貸人はよし其損害を賠償せしめ得ざるも寧ろ何等関係なき自家類焼者には賠償を得せしむるを要すべきに反対に賃貸人のみ要償権ありとせざるべからざるは如何にしても被上告人の了解し能はざる所なり。
要するに法律第四十号は失火者の責任に関する件と題したる一般失火に基く損害賠償責任に関する規定にして失火者に重大なる過失あるときに限り其損害が債務不履行の損害なるも其他の損害なるも賠償責任を負担せしむる法意精神なる事は法制の沿革より見るも亦事理の上より之を見るも其然らざるべからざることを信ず。
上告人の所論は多様なるが如きも要するに法律第四十号は民法第七百九条の規定は失火の場合には之を適用せず。
但失火者に重大なる過失あるときは此限に在らずとあるを以て失火者の重大過失の有無に拠で責任の有無を定むるは不法行為の場合に限りて義務不履行の損害の場合は之を含ますと言ふに在り。
然れども失火とは。
抑も過失の火災なり。
必ずや先づ民法第七百九条の適用如何の規定を要す。
既に過失の責任は其過失が重大なる場合に限ると規定したる以上は失火即ち過失の火災を理由とする其他の賠償責任も亦当然同一なるべきは勿論なるを以て失火を理由とする債務不履行の損害賠償にも適用あるものと解するは至当なり。
若又仮りに法文其意を尽さざるものとせば裁判官は諸種の方面より之を解釈して法律を活用し法の精神を発揮せしめざるべからず。
我大審院が嚮に学者の異説あるに係はらず断然判例を示して解釈を統一したるは最高法衙として一段の識見を表顕したるものと言ふべし。
畢竟上告人は一に啻文字に拘泥して法則を誤解したる為め原判決を攻撃し法則を不当に適用したりと言ふも原判決は何等違法の判決にあらずと云ふに在り
仍て按ずるに民法第七百九条は故意又は過失に因りて他人の権利を侵害したる者即ち不法行為者に其行為に因りて生じたる損害の賠償責任を負はしむる規定なること多言を竢たず。
而して明治三十二年法律第四十号は「民法第七百九条の規定は失火の場合には之を適用せず。
云云」とありて失火に因りて他人の財物を焼失せしめ其物上の権利を侵害するも失火者に重大なる過失なき限りは民法第七百九条を適用せざることを規定したるものなれば失火者の過失重大ならざりしときは不法行為あるものとして損害賠償の責任を負はしめざる法意なること法文上明白なり。
凡そ火を失して他人の財物を焼失せしむるは過失に因りて他人の権利を侵害するものに外ならざるが故に一般の原則に従へは失火者に損害賠償の責任を負はしむべきは当然なれども失火の場合は他の場合と同一に律す可からざるものあり蓋し何人と雖も自己の財物を滅尽すべき過ながらんことに注意を怠らざるは勿論なるに失火は殆んど毎に自己の財物を焼失せしむるものにして其過失の宥恕すべき事情の存する場合少しとせず而かも人家稠密の地に於て偶火を失するや延焼幾百千戸に及ぶことありて其損害素より測る可からず。
然るに失火者に此測る可からざる損害を賠償するの責任を負はしむるは酷の甚しきものなり。
故に火を失して他人の財物を焼失せしめたる場合即ち他人の焼失物上の権利を侵害したる場合に於て失火者に損害賠償の責任を負はしめざること我邦古来の慣習にして旧刑法附則第五十九条に犯罪に因りて生じたる損害に付、被害者に賠償を請求するの権利あることを声明しながら「。
但し失火の場合は此限に在らず」と規定したりし所以なり。
而して明治三十二年法律第四十号は右刑法附則第五十九条但書の法意を復活せしむる趣意に出でたるものなれば其沿革上より観るも同法律は単に焼失物上の権利侵害に付、失火者に重大なる過失なき限りは損害賠償の責任を負はしめざる法意にして、即ち不法行為に因りて生じたる損害の賠償責任に関する例外規定なること洵に明瞭なり。
抑賃貸人と賃借人との間には賃貸借契約に因りて特別なる債権債務の在存するありて賃借人は賃貸人に対し其債務を履行せざるを得ざるものなれば家屋の賃借人が火を失して其家屋を焼失せしめ因で之が返還の義務を履行せざるときは一面に於ては過失に因りて賃貸人の所有権を侵害したるものにして不法行為たると同時に他の一面に於ては自己の過失に因りて債務を履行すること能はざるに至りたるものにして債務不履行たること勿論なり。
而して其不法行為に付ては明治三十二年法律第四十号の規定に依り重大なる過失なき限り民法第七百九条の適用なくして損害賠償の責任なしと雖も債務不履行に付ては民法第四百十五条の適用あるを以て過失の軽重に拘はらず因りて生じたる損害を賠償せざる可からざること更に多言を竢たざるべし本件上告人は其所有家屋を被上告人に賃貸したるものにして賃借人たる被上告人が賃借家屋の返還を遅滞せる間に於て被上告人の雇人なる杉山音五郎の過失に因りて該家屋焼失したる為め之が返還の義務を履行すること能はざるに至りたるものなること。
即ち被上告人の債務不履行を原因として本訴の請求を為すものにして其所有権を侵害せられたること。
即ち不法行為を以て請求原因とせるものに非ざるは原院も認むる所なれば被上告人の債務不履行が果して同人の責に帰すべき事由に因りて履行不能に至りたるものなる以上は前説明の如く民法第四百十五条を適用して被上告人に損害賠償の責任あるものと為さざる可からず。
然るに原院が明治三十二年法律第四十号は不法行為の場合のみに限らず債務不履行の場合にも適用あるべきものとし同法律を適用して被上告人に本訴請求に応すべき責任なしと判定したるは法律を不当に適用したる不法あるものにして原判決は破毀を免れず
右の理由なるを以て他の上告論旨に対する説明を略し民事訴訟法第四百四十七条第一項第四百四十八条第一項に従ひ主文の如く判決す。
但し本件は本院の判例(明治三十七年(オ)第四百八十号事件の類)と相反する意見あるを以て裁判所構成法第四十九条同第五十四条に依り民事総部連合して審判す