明治四十四年(オ)第百五十五號
明治四十年六月八日第一民事部判決
◎判決要旨
- 一 消費貸借ニ於ケル金錢其他ノ物ノ引渡ハ必スシモ現實ナルヲ要セス簡易ノ引渡方法ニ依ルモ妨ケナシ故ニ貸主カ借主ノ意思ニ反セサル第三者ヨリ辨濟トシテ受クヘキ金錢ヲ消費貸借ノ目的物ト爲シ之カ受授ヲ省略シ以テ第三者トノ間ニ消費貸借ヲ成立セシムルコトヲ得ルモノトス
上告人 楊井清二郎 外一名
被上告人 株式會社百三十銀行
右當事者間ノ貸金請求事件ニ付大阪控訴院カ明治四十四年三月七日言渡シタル判決ニ對シ上告人ヨリ全部破毀ヲ求ムル申立ヲ爲シタリ
理由
上告理由ノ第一ハ原判決ニ依レハ上告人清二郎ニ於テ池上正次郎カ五十八銀行ニ對シ負擔セシ債務ヲ辨濟スヘキコトヲ約シタルヲ以テ上告人清二郎ハ其債務ヲ同銀行ヘ履行スヘキ義務ヲ有スルニ付更ニ之レヲ消費貸借ノ目的トナスコトヲ約シタルモノナリト判決セラレタレトモ凡ソ第三者カ他人ノ債務ニ付キ自ラ辨濟ノ債務ヲ負擔スルニハ更改契約ニ依ルカ又ハ債務ノ引受契約ニ依ルヲ要シ之ヲ外ニシテ第三者カ他人ノ債務ヲ即時ニ且ツ現實ニ辨濟スルニアラスシテ將來ニ於テ辨濟ヲ爲スヘキ債務ヲ負擔スヘキ方法ナキコトハ法理上疑ヒナキ所ニ屬ス蓋シ辨濟ハ第三者ト雖モ之ヲ爲シ得ヘキハ勿論ナリト雖モ第三者カ辨濟ヲ爲スハ債務者ニ對シテ自己カ辨濟ノ債務ヲ負擔スルカ爲メニアラスシテ債務者ノ委託其他ノ關係ニ於テスルモノナレハ其辨濟ヲ爲ス第三者ト債權者間ニ債務關係ヲ生シ又ハ辨濟契約ノ履行トシテ辨濟ヲ爲スモノニアラス故ニ原債務者ノ債務ハ依然トシテ存在スルニモ拘ハラス第三者カ其同一ノ債務ニ付キ原債務者ト重複シテ辨濟ノ債務ヲ負擔スルカ如キ法律關係ハ法律ノ認メサル所ナリ然リ而シテ原判決カ本件ノ關係ヲ更改契約ニ依リタルモノトセラレタルニアラサルコトハ其理由ノ後段ニ於テ被上告人ノ四十三年十二月二十一日ノ口頭陳述ノ取消ヲ認容シタルニ徴シ明瞭ナレハ結局之ヲ債務ノ引受ト認メタルモノトセサルヘカラス然ルニ債務ノ引受トセハ其契約ノ成立スルニハ三方關係即チ新舊債務者竝ニ債權者間ニ合意アルコトヲ要スルハ法理上疑ヒナキ所ナルニ原判決ニ依レハ前掲ノ如ク舊債務者タル池上正次郎カ上告人清二郎ノ債務引受ニ干與シタル事實ハ認メラレサル所ナルヲ以テ債務引受契約ハ其要件ヲ充タササルモノ即チ有効ニ成立セサリシモノト論セサルヘカラス既ニ然ラハ假ニ原判決説明ノ如ク當事者間ニ上告人清二郎ノ辨濟ノ約束ヲ更ニ消費貸借トナシタルモノトスルモ其約束タルヤ法律上何等ノ効果ナキモノナルヲ以テ之ヲ原因トシタル甲第一號證ノ消費貸借契約ハ原因ヲ缺キ結局無効タルヘキモノナルニ原判決カ上告人ニ敗訴ヲ言渡シタルハ法則ヲ不當ニ適用シタル不法アルモノト云フニ在リ
按スルニ財産上ノ取引ニ關スル法條ハ取引上ノ觀念ヲ無視シテ設ケラレタルモノニ非サルヲ以テ之ヲ解スルニハ取引上ノ觀念ヲ斟酌スルヲ要スルコト固ヨリ論ナキ所ナリトス民法第五百八十七條ハ財産上ノ取引ニ關スル一箇ノ法條ナルヲ以テ同條ニ所謂金錢其他ノ物ノ受取ノ意義ヲ審究スルニハ取引上ノ觀念ヲ無視スルヲ許サス當院ノ解スル所ニ依レハ同條ニ所謂金錢其他ノ物ノ受取トハ金錢其他ノ物カ借主タルヘキ當事者ノ財産ニ歸屬スルノ謂ニシテ又金錢其他ノ物ハ現實ノ引渡ノ他ニ尚ホ之ト同視スルコトヲ得ヘキ各種ノ行爲殊ニ簡易ノ引渡ノ方法ニ依リテ借主タルヘキ當事者ノ財産ニ歸屬スルモノト認ム蓋消費貸借ハ所謂要物契約ナリト雖モ之カ爲メ金錢其他ノ物ヲ受取ル方法ヲ現實ノ引渡ニ限ルカ如キハ極メテ消費貸借ノ行ハルル範圍ヲ狹隘ニ失セシメ取引上ノ實際ニ不便ヲ來タシ延テ取引上ノ觀念ニ反スルニ至ルヲ以テナリ故ニ債權者カ債務者ノ意思ニ反セサル第三者ノ辨濟ヲ受ケ更ニ其目的物ヲ第三者ニ貸與セント欲スル場合ニ在リテハ一旦第三者ヨリ現實ニ目的物ノ引渡ヲ受ケ更ニ之ヲ現實ニ第三者ニ引渡ス方法ニ依ラスシテ消費貸借ヲ成立セシムルコトヲ得可シ即チ消費貸借ニ於ケル貸主ハ第三者ヨリ借主ノ意思ニ反セサル金錢ノ支拂ヲ受クル手續ト其第三者ノ消費貸借ノ目的物タル金錢ヲ現實ニ引渡ス手續トヲ省畧シ以テ其第三者トノ間ニ金錢ノ消費貸借ヲ成立セシムルコトヲ得可シ是簡易引渡ノ方法ニ依リテ成立スル消費貸借ナリトス原判決ヲ閲スルニ原判決ニハ「第三者タル被控訴人清二郎ニ於テ訴外正次郎カ同銀行ニ對シ負擔セシ金一萬二千五百六十九圓三十五錢ノ債務ヲ辨濟スヘキコトヲ約シタルヲ以テ被控訴人清二郎ハ該金ヲ同銀行ヘ交付スヘキ義務ヲ有スルニ付更ニ之ヲ以テ消費貸借ノ目的ト爲スコトヲ約シ被控訟人佐兵衛ハ其連帶保證人ト爲ルヘキコトヲ約シ現金ノ授受ヲ省畧シ甲第一號證ノ金錢借用證書ヲ同銀行ヘ差出シタルモノニシテ被控訴人清二郎カ訴外正次郎ノ債務ヲ辨濟シタルハ訴外正次郎ノ意思ニ反セサリシモノト認ム」ト判示シ元株式會社五十八銀行ハ第三者タル上告人清二郎ヨリ本來ノ借主正次郎ノ意思ニ反セサル債務ノ辨濟トシテ金錢ヲ受領シ更ニ之ヲ清二郎ニ貸與スル爲メ清二郎ヨリ金錢ヲ受領スル手續ト之ニ金錢ヲ現實ニ引渡ス手續即チ金錢授受ノ手續ヲ省畧シテ甲一號證ノ消費貸借ヲ成立セシメタル事實ヲ認定シタリ是前示簡易引渡ノ方法ニ依リテ成立スル消費貸借ニ他ナサラルヲ以テ斯ル事實ノ認定ハ固ヨリ合法ニシテ毫モ不當ナル所ナシ故ニ本論旨ハ結局原判決ノ趣旨ヲ誤解シタルニ歸シ其當ヲ得サルモノトス
上告理由ノ第二ハ原判決カ本件消費貸借ノ成立ニ對シテ爲シタル説明ハ甚タ不明瞭ニシテ其理由ノ統一ヲ缺クト雖モ被上告人(控訴人)ハ控訴審ノ最終ノ辯論ニ於テ從前ノ申立ヲ變更シ本件ノ貸借ハ簡易ノ引渡ニ依ルモノナリト主張シ原判決モ其判決理由中ニ於テ被上告人ノ自白ノ取消ヲ有効ナリト説明シタル點ヨリ見レハ原院ハ止新規ナル主張ノ正當ナルコトヲ認ムルモノノ如ク換言セハ被上告人ハ本件ニ於テ上告人(被控訴人)清二郎ハ金一萬二千五百六十九圓三十五錢ヲ被上告人(控訴人)ニ辨濟スヘキ義務ヲ有スルニ付現金ノ授受ヲ省畧シ簡易ノ引渡ニ依ル消費貸借ヲ成立セシメタルモノナリト論スルモノノ如ク原判決モ亦其申立ヲ採用シタルモノノ如シ果シテ然リトセハ是レ占有及ヒ消費貸借ノ成立ニ關スル法理ノ誤解ニ出ルモノナリト信ス抑モ民法第百八十二條第二項ハ占有移轉ノ方法ヲ規定シタルモノニシテ元來占有權其他一般ノ物權ハ其内容タルヤ物ニ關シ直接ノ支配ヲ爲スニ存スルヲ以テ其目的物ハ常ニ各箇特定ノ物タルヲ要シ一般不特定ノ物タルヲ得ス蓋シ種類及ヒ數量ノミニ依リ表示サルル物ノ如キハ之ヲ無形抽象ノ裡ニ想像シ得ルニ止リ能ク之ヲ現實ニ支配シ得ヘキ謂ハレナケレハナリ從テ目的物ノ特定セサル場合ニ於テハ簡易ノ引渡ニ依ル占有ノ移轉ノ行ハレ得ヘキモノニアラス簡易引渡ニ依ル消費貸借ノ成立要件ニ關スル御院明治四十一年(オ)第三五二號事件(法律新聞第五四八號記載明治四十一年十二月二十一日言渡)及ヒ御院明治四十一年(オ)第二八號事件(同年五月四日判決)ニ於テ「簡易引渡ノ行ハルルニハ物ノ引渡ヲ受クヘキ者カ現ニ其物ヲ所持スル場合ニ於テ當事者ノ意思表示ノミニ依ル占有權ノ讓渡ナリ」云云ト説明セラレタルハ即チ此法理ヲ闡明シタルモノニ外ナラス要之簡易ノ引渡ハ其目的物ノ特定セル場合ニ就テノミ適用サルヘキモノナルコト敢テ多言ヲ俟タサル所ナリ然リ而シテ本件ニ於テ消費貸借ノ目的タル金錢カ特定物ニアラサルハ勿論其不特定物タル金錢カ變シテ特定スルニ至リタル事實ハ原判決ノ判斷セラレサル所ナレハ(民法第四百一條第二項參照)本件ノ關係ニ於テハ所謂簡易ノ引渡ナル觀念ヲ容ルルノ餘地ナキコト甚タ明白ニシテ此點ヨリ見レハ原判決ハ不法タルヲ免レス然ルニ又一方ニ於テハ原判決ノ理由中上告人清二郎ハ池上正次郎ノ債務辨濟ノ義務ヲ消費貸借ノ目的トシタリトノ説明ノミニ徴スレハ原判決ハ本件ヲ以テ民法第五百八十八條ニ依ル準消費貸借ナリトシタル觀アルモ元來同條ニ依ル準消費貸借ハ全ク現物ノ授受ナキ場合ニ外ナラスシテ現物ノ授受アル場合ハ擧ケテ同法第五百八十七條ノ適用ヲ受クヘキモノトス故ニ一面ニ於テ第五百八十八條ニ依ル消費貸借ノ成立ヲ認容シツツ尚他面ニハ現物ノ授受アルコトヲ肯定スルニ至リテハ柄鑿相容レサル矛盾ノ觀利ナリト云ハサルヘカラス然リ而シテ凡ソ事ノ省畧ハ本來爲スヘキコトヲ爲サスシテ而モ之ヲ爲シタリト看做スニ外ナラス即チ省畧ハ本來虚無ニ在ラス常ニ吾人ノ觀念上不作爲ニシテ尚且ツ作爲ト其價値ヲ同フスルモノナリ果シテ然ラハ第五百八十八條ニ依ル消費貸借ノ成立ヲ認メツツ現物授受ノ省畧アリタルコトヲ認メントスルハ宛モ前陳現物ノ授受ヲ認ムルト同シク亦矛盾セル觀念ナリト謂ハサルヘカラス要スルニ何レノ方面ヨリ觀察スルモ原判決ハ理由不備ノ不法アルヲ免レスト云フニ在リ
然レトモ民法第五百八十七條ニ依ル金錢其他ノ物ノ受取ハ所謂簡易引渡ノ方法ニ依ルコトヲ得ヘク又原判決ハ本件ノ關係ヲ簡易引渡ニ依ル民法第五百八十七條ノ消費貸借ト認メタルコト前示説明ノ如シ故ニ原判決ニハ本論旨ノ如キ不法ナシ
上告理由ノ第三ハ原判決ハ現金ノ授受ヲ省畧シテ貸借ヲ成立セシメ以テ訴外正次郎ノ債務ヲ上告人清二郎カ辨濟シタリト説明セリ然レトモ民法第五百八十八條ニ依リ消費貸借ノ成立スル場合ニハ債務ノ目的ニ就テハ何等ノ變更ナキモ既ニ前後ノ債權債務ハ其原因ヲ異ニスルニ至レルヲ以テ又其債務ノ性質ニモ異動ナキ能ハサルナリ而カモ當事者ノ意思タル素ヨリ新舊債務ヲ同時ニ併存セシムルニアラサルハ論ナシ即チ舊債務ヲ新債務ニ代ハラシメタルモノナルカ故ニ舊債務ハ之ニ依リ茲ニ消滅セサルヘカラス然リ而シテ其消滅タルヤ斷シテ辨濟ニアラス蓋シ辨濟ハ債務ノ本旨ニ從ヒ履行ヲ爲スニ因リテ債務ヲ消滅セシムルニアルヲ以テ常ニ現實行爲ノ存在ヲ要件トス然ルニ右第五百八十八條ノ場合ニ於テハ當事者間ニ意思表示アルニ止リ之ヲ外ニシテ何等ノ現實行爲ナシ以テ其辨濟ニアラサルヤ疑ナキ所ニシテ要スルニ其性質ハ民法カ第五百八十八條ニ依リ認メタル一種特別ノ消滅原因ナリト云ハサル可ナス故ニ若シ原判決カ第五百八十八條ニ依リ甲一號證ノ消費貸借ノ成立ヲ認メタルモノトセハ上告人清二郎ノ債務ハ勿論其舊債務者タリシ訴外正次郎ノ當初被上告人ニ對シテ負擔シタル債務ノ消滅ハ辨濟ニ依リタルニアラスシテ實ニ第五百八十八條ノ特別規定ニ依リテ消滅シタルモノニ外ナラス然ルニ原判決ハ之ヲ以テ上告人清二郎ニ於テ辨濟ヲ爲シタルモノナリト説明セルニ至テハ理由ノ不備タルヲ免レスト云フニ在リ
然レトモ上告人清二郎ト元株式會社八十五銀行トノ間ニ簡易引渡ニ依ル消費貸借成立シタリト認定シタル以上ハ清二郎ハ正次郎ノ債務ヲ辨濟シ唯其辨濟手續ノミヲ省畧シタルモノト認ムヘキモノナルヲ以テ原判決ニ於テ現金ノ授受ヲ省畧シテ貸借ヲ成立セシメ以テ訴外正次郎ノ債務ヲ上告人清二郎カ辨濟シタリト説明シタルハ正當ニシテ之カ爲メニ原判決ニ本論旨ノ如キ不法ナシト認ム
如上ノ理由ニ依リ民事訴訟法第四百三十九條ニ則リ主文ノ如ク評決シタリ
明治四十四年(オ)第百五十五号
明治四十年六月八日第一民事部判決
◎判決要旨
- 一 消費貸借に於ける金銭其他の物の引渡は必ずしも現実なるを要せず。
簡易の引渡方法に依るも妨げなし故に貸主が借主の意思に反せざる第三者より弁済として受くべき金銭を消費貸借の目的物と為し之が受授を省略し以て第三者との間に消費貸借を成立せしむることを得るものとす。
上告人 楊井清二郎 外一名
被上告人 株式会社百三十銀行
右当事者間の貸金請求事件に付、大坂控訴院が明治四十四年三月七日言渡したる判決に対し上告人より全部破毀を求むる申立を為したり。
理由
上告理由の第一は原判決に依れば上告人清二郎に於て池上正次郎が五十八銀行に対し負担せし債務を弁済すべきことを約したるを以て上告人清二郎は其債務を同銀行へ履行すべき義務を有するに付、更に之れを消費貸借の目的となすことを約したるものなりと判決せられたれども凡そ第三者が他人の債務に付き自ら弁済の債務を負担するには更改契約に依るか又は債務の引受契約に依るを要し之を外にして第三者が他人の債務を即時に且つ現実に弁済するにあらずして将来に於て弁済を為すべき債務を負担すべき方法なきことは法理上疑ひなき所に属す蓋し弁済は第三者と雖も之を為し得べきは勿論なりと雖も第三者が弁済を為すは債務者に対して自己が弁済の債務を負担するか為めにあらずして債務者の委託其他の関係に於てずるものなれば其弁済を為す第三者と債権者間に債務関係を生じ又は弁済契約の履行として弁済を為すものにあらず。
故に原債務者の債務は依然として存在するにも拘はらず第三者が其同一の債務に付き原債務者と重複して弁済の債務を負担するが如き法律関係は法律の認めざる所なり。
然り、而して原判決が本件の関係を更改契約に依りたるものとせられたるにあらざることは其理由の後段に於て被上告人の四十三年十二月二十一日の口頭陳述の取消を認容したるに徴し明瞭なれば結局之を債務の引受と認めたるものとせざるべからず。
然るに債務の引受とせば其契約の成立するには三方関係即ち新旧債務者並に債権者間に合意あることを要するは法理上疑ひなき所なるに原判決に依れば前掲の如く旧債務者たる池上正次郎が上告人清二郎の債務引受に干与したる事実は認められざる所なるを以て債務引受契約は其要件を充たさざるもの。
即ち有効に成立せざりしものと論せざるべからず。
既に然らば仮に原判決説明の如く当事者間に上告人清二郎の弁済の約束を更に消費貸借となしたるものとするも其約束たるや法律上何等の効果なきものなるを以て之を原因としたる甲第一号証の消費貸借契約は原因を欠き結局無効たるべきものなるに原判決が上告人に敗訴を言渡したるは法則を不当に適用したる不法あるものと云ふに在り
按ずるに財産上の取引に関する法条は取引上の観念を無視して設けられたるものに非ざるを以て之を解するには取引上の観念を斟酌するを要すること固より論なき所なりとす。
民法第五百八十七条は財産上の取引に関する一箇の法条なるを以て同条に所謂金銭其他の物の受取の意義を審究するには取引上の観念を無視するを許さず当院の解する所に依れば同条に所謂金銭其他の物の受取とは金銭其他の物が借主たるべき当事者の財産に帰属するの謂にして又金銭其他の物は現実の引渡の他に尚ほ之と同視することを得べき各種の行為殊に簡易の引渡の方法に依りて借主たるべき当事者の財産に帰属するものと認む蓋消費貸借は所謂要物契約なりと雖も之が為め金銭其他の物を受取る方法を現実の引渡に限るが如きは極めて消費貸借の行はるる範囲を狭隘に失せしめ取引上の実際に不便を来たし延で取引上の観念に反するに至るを以てなり。
故に債権者が債務者の意思に反せざる第三者の弁済を受け更に其目的物を第三者に貸与せんと欲する場合に在りては一旦第三者より現実に目的物の引渡を受け更に之を現実に第三者に引渡す方法に依らずして消費貸借を成立せしむることを得。
可し。
即ち消費貸借に於ける貸主は第三者より借主の意思に反せざる金銭の支払を受くる手続と其第三者の消費貸借の目的物たる金銭を現実に引渡す手続とを省略し以て其第三者との間に金銭の消費貸借を成立せしむることを得。
可し是簡易引渡の方法に依りて成立する消費貸借なりとす。
原判決を閲するに原判決には「第三者たる被控訴人清二郎に於て訴外正次郎が同銀行に対し負担せし金一万二千五百六十九円三十五銭の債務を弁済すべきことを約したるを以て被控訴人清二郎は該金を同銀行へ交付すべき義務を有するに付、更に之を以て消費貸借の目的と為すことを約し被控訟人佐兵衛は其連帯保証人と為るべきことを約し現金の授受を省略し甲第一号証の金銭借用証書を同銀行へ差出したるものにして被控訴人清二郎が訴外正次郎の債務を弁済したるは訴外正次郎の意思に反せざりしものと認む」と判示し元株式会社五十八銀行は第三者たる上告人清二郎より本来の借主正次郎の意思に反せざる債務の弁済として金銭を受領し更に之を清二郎に貸与する為め清二郎より金銭を受領する手続と之に金銭を現実に引渡す手続即ち金銭授受の手続を省略して甲一号証の消費貸借を成立せしめたる事実を認定したり。
是前示簡易引渡の方法に依りて成立する消費貸借に他なさらるを以て斯る事実の認定は固より合法にして毫も不当なる所なし。
故に本論旨は結局原判決の趣旨を誤解したるに帰し其当を得ざるものとす。
上告理由の第二は原判決が本件消費貸借の成立に対して為したる説明は甚た不明瞭にして其理由の統一を欠くと雖も被上告人(控訴人)は控訴審の最終の弁論に於て従前の申立を変更し本件の貸借は簡易の引渡に依るものなりと主張し原判決も其判決理由中に於て被上告人の自白の取消を有効なりと説明したる点より見れば原院は止新規なる主張の正当なることを認むるものの如く換言せば被上告人は本件に於て上告人(被控訴人)清二郎は金一万二千五百六十九円三十五銭を被上告人(控訴人)に弁済すべき義務を有するに付、現金の授受を省略し簡易の引渡に依る消費貸借を成立せしめたるものなりと論するものの如く原判決も亦其申立を採用したるものの如し果して然りとせば是れ占有及び消費貸借の成立に関する法理の誤解に出るものなりと信ず。
抑も民法第百八十二条第二項は占有移転の方法を規定したるものにして元来占有権其他一般の物権は其内容たるや物に関し直接の支配を為すに存するを以て其目的物は常に各箇特定の物たるを要し一般不特定の物たるを得ず。
蓋し種類及び数量のみに依り表示さるる物の如きは之を無形抽象の裡に想像し得るに止り能く之を現実に支配し得べき謂はれなければなり。
従て目的物の特定せざる場合に於ては簡易の引渡に依る占有の移転の行はれ得べきものにあらず。
簡易引渡に依る消費貸借の成立要件に関する御院明治四十一年(オ)第三五二号事件(法律新聞第五四八号記載明治四十一年十二月二十一日言渡)及び御院明治四十一年(オ)第二八号事件(同年五月四日判決)に於て「簡易引渡の行はるるには物の引渡を受くべき者が現に其物を所持する場合に於て当事者の意思表示のみに依る占有権の譲渡なり。」云云と説明せられたるは。
即ち此法理を闡明したるものに外ならず要之簡易の引渡は其目的物の特定せる場合に就てのみ適用さるべきものなること敢て多言を俟たざる所なり。
然り、而して本件に於て消費貸借の目的たる金銭が特定物にあらざるは勿論其不特定物たる金銭が変して特定するに至りたる事実は原判決の判断せられざる所なれば(民法第四百一条第二項参照)本件の関係に於ては所謂簡易の引渡なる観念を容るるの余地なきこと甚た明白にして此点より見れば原判決は不法たるを免れず。
然るに又一方に於ては原判決の理由中上告人清二郎は池上正次郎の債務弁済の義務を消費貸借の目的としたりとの説明のみに徴すれば原判決は本件を以て民法第五百八十八条に依る準消費貸借なりとしたる観あるも元来同条に依る準消費貸借は全く現物の授受なき場合に外ならずして現物の授受ある場合は挙けて同法第五百八十七条の適用を受くべきものとす。
故に一面に於て第五百八十八条に依る消費貸借の成立を認容しつつ尚他面には現物の授受あることを肯定するに至りては柄鑿相容れざる矛盾の観利なりと云はざるべからず。
然り、而して凡そ事の省略は本来為すべきことを為さずして而も之を為したりと看做すに外ならず。
即ち省略は本来虚無に在らず常に吾人の観念上不作為にして尚且つ作為と其価値を同ふするものなり。
果して然らば第五百八十八条に依る消費貸借の成立を認めつつ現物授受の省略ありたることを認めんとするは宛も前陳現物の授受を認むると同じく亦矛盾せる観念なりと謂はざるべからず。
要するに何れの方面より観察するも原判決は理由不備の不法あるを免れずと云ふに在り
然れども民法第五百八十七条に依る金銭其他の物の受取は所謂簡易引渡の方法に依ることを得べく又原判決は本件の関係を簡易引渡に依る民法第五百八十七条の消費貸借と認めたること前示説明の如し故に原判決には本論旨の如き不法なし。
上告理由の第三は原判決は現金の授受を省略して貸借を成立せしめ以て訴外正次郎の債務を上告人清二郎が弁済したりと説明せり。
然れども民法第五百八十八条に依り消費貸借の成立する場合には債務の目的に就ては何等の変更なきも既に前後の債権債務は其原因を異にするに至れるを以て又其債務の性質にも異動なき能はざるなり。
而かも当事者の意思たる素より新旧債務を同時に併存せしむるにあらざるは論なし。
即ち旧債務を新債務に代はらしめたるものなるが故に旧債務は之に依り茲に消滅せざるべからず。
然り、而して其消滅たるや断して弁済にあらず。
蓋し弁済は債務の本旨に従ひ履行を為すに因りて債務を消滅せしむるにあるを以て常に現実行為の存在を要件とす。
然るに右第五百八十八条の場合に於ては当事者間に意思表示あるに止り之を外にして何等の現実行為なし。
以て其弁済にあらざるや疑なき所にして要するに其性質は民法が第五百八十八条に依り認めたる一種特別の消滅原因なりと云はざる可なす。
故に若し原判決が第五百八十八条に依り甲一号証の消費貸借の成立を認めたるものとせば上告人清二郎の債務は勿論其旧債務者たりし訴外正次郎の当初被上告人に対して負担したる債務の消滅は弁済に依りたるにあらずして実に第五百八十八条の特別規定に依りて消滅したるものに外ならず。
然るに原判決は之を以て上告人清二郎に於て弁済を為したるものなりと説明せるに至ては理由の不備たるを免れずと云ふに在り
然れども上告人清二郎と元株式会社八十五銀行との間に簡易引渡に依る消費貸借成立したりと認定したる以上は清二郎は正次郎の債務を弁済し唯其弁済手続のみを省略したるものと認むべきものなるを以て原判決に於て現金の授受を省略して貸借を成立せしめ以て訴外正次郎の債務を上告人清二郎が弁済したりと説明したるは正当にして之が為めに原判決に本論旨の如き不法なしと認む
如上の理由に依り民事訴訟法第四百三十九条に則り主文の如く評決したり。