明治四十五年(れ)第一五七二號
大正元年十一月五日宣告
◎判決要旨
- 一 事實裁判所カ被告事件ノ審理上特許權ノ範圍ヲ判定スル必要アル場合ニ特許明細書ノ記載ニ疑アルトキ他ノ證據ヲ參照シテ自由ナル判斷ニ依リ之カ解釋ヲ爲シ以テ特許權ノ範圍ヲ明ニスルハ證據ノ解釋ニ付キ事實裁判所ノ有スル職權ノ行使ニ外ナラス
第一審 松山地方裁判所西條支部
第二審 名古屋控訴院
右特許權侵害被告事件ニ付明治四十五年六月二十四日名古屋控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ原院檢事長手塚太郎ハ上告ヲ爲シタリ因テ判決スル左ノ如シ
理由
本件上告ハ之ヲ棄却ス
原院檢事長手塚太郎上告趣意書特許ハ新規ナル工業的發明ヲ爲シタル者ニ對シ特許權ヲ付與スル所ノ行政處分ニシテ發明者ハ其發明ニ依リ當然特許權ヲ有スルモノニアラス特許ニ依リ始メテ之ヲ享有スヘキコトハ發明者ヲシテ特ニ當該行政廳ニ出願シ其特許ヲ受ケシムルニ徴シテ明カナリ故ニ特許ノ出願ニ對スル許可ヲ決スルハ一ニ當該行政廳タル特許局ノ職權ニ屬スルモノニシテ特許局以外ノ者ヲシテ毫モ容喙セシムヘキモノニアラス而シテ特許局ニ於テ苟クモ特許ヲ與フヘキモノト認メタルトキハ之カ出願者ニ對シ特許證ヲ交付シ且之ヲ特許原簿ニ登録シ茲ニ始メテ特許權ノ發生ヲ見ルヘキモノナルカ故ニ特許權ノ效力範圍ハ一ニ特許證附屬ノ明細書ノ請求區域ニ依リテ定マルモノトス即特許權ノ效力範圍ハ特許證ト相待テ一定不動ノモノニシテ決シテ司法裁判所ノ判斷如何ニ依リ其效力範圍ニ異動ヲ來スモノニアラス若假リニ局外者タル司法裁判所ヲシテ自由ニ其效力範圍ニ異動ヲ來スヘキ判斷ヲ爲スコトヲ得セシムルニ於テハ特許ノ效力ニ重大ナル影響ヲ及ホスヘク從テ法律カ特許ノ出願ニ係ル審査竝ニ特許權ノ範圍確認ノ審判ヲ特許局ニ一任シタル所以ノ主旨ヲ沒却シ遂ニ特許制度ヲ破壞スルノ結果ヲ生スルニ至ルヘシ故ニ特許局カ或特許權ノ效力範圍ハ甲或ハ二ナリト云フニ拘ハラス司法裁判所ニ於テハ乙或ハ一ナリト云フコトヲ許サス依テ御木本幸吉ノ特許ヲ受ケタル第二六七〇號眞珠素質被着法ノ特許證ヲ按スルニ「特許條例ニ依リ本發明ノ特許ヲ請求スル區域左ノ如シ一、本文所記第一乃至第四ノ目的ヲ達セシムルカ爲メ硝子介殼又ハ此場合ニ在テ硝子介殼ト均シキ用ヲ爲シ得ヘキ物質ヲ以テ球又ハ一所切落シノ球ヲ作リ食鹽ヲ以テ之ヲ磨クカ又ハ濃厚食鹽水中ニ之ヲ浸シ然ル後生活セル眞珠介ノ中ニ挿入シテ眞珠素質ヲ被ラシムヘキ方法」トアルヲ以テ該特許ノ要部ハ硝子介殼等ヲ以テ球又ハ一所切落シノ球ヲ作ルコトト食鹽ヲ以テ之ヲ磨キ又ハ濃厚食鹽水中ニ之ヲ浸スコトトノ二點ニシテ而シテ此二點コソ實ニ本發明カ人工眞珠培養法ニ改良ヲ加ヘタルモノトシテ特許ヲ與ヘラレタル骨子ナリト云フヘケレ何トナレハ明細書中ニ掲ケタル目的中ノ眞珠素質ノ被着ヲ平等ナラシムルコトト珠ト介殼トノ聯絡薄弱ナルカ爲メニ稍球形ニ近キ眞珠ヲ形成セシメ得ルコトトハ主トシテ一所切落シノ球ノ使用ニ待タサルヘカラス從テ前掲ノ方法ニテ食鹽ヲ使用スル效果ハ單ニ眞珠素質ノ分必ヲ促進シ且挿入シタル核カ介殼外ニ吐出セラルル割合ヲ比較的減少スルニ過キサルコトヲ見ルニ足ルヘク其他御木本幸吉ハ本發明ノ要部ハ良好ニ眞珠素質ヲ被着スル程度迄核ノ一部ヲ切落ス點ニアルコトヲ證言シ本件參考書類タル特許公報第一千四百三十四號中審判第一三七二號審決書ノ審決理由ニ「又球ノミヲ生活スル眞珠介ノ中ニ挿入スル方法及一所切落シノ球ヲ生活スル眞珠介ノ中ニ挿入スル方法モ亦本件特許ノ一要部ニ屬スルカ故ニ本件特許ノ權利ノ範圍内ニアルモノトス」云云同第一千四百三十三號中抗告審判第六十一號同上ニ「一所切落シノ球ノ使用ハ從來當業者ノ想到セサル微妙ノ考案ニ基ク新規ノ核ト云ハサルヘカラス故ニ半球形ノ核ノ使用カ公知公用ニ屬スルトスルモ一所切落シノ核ハ本件特許出願前公然知ラレ又ハ公然用ヰラレタルモノト云フヘカラス」云云トアリテ一所切落シ等ノ球ト食鹽トノ使用ハ兩者相待テ不可分的效用ヲ全ウスルコト明ニシテ該特許權ノ範圍中ニ一所切落シノ球等ノ使用ヲモ包含スルコトハ秋毫モ疑ヒナケレハナリ然ルニ原審ニ於テハ御木本幸吉ノ特許ノ範圍ハ唯食鹽ヲ以テ磨キ又ハ食鹽水ニ浸ス點ノミニシテ一所切落シ等ノ球ノ使用ハ特許ノ範圍ニアラスト妄斷シ被告七郎外二名カ判示ノ年月場所ニ於テ蝶貝製ノ球又ハ半球(一部切落シ)一萬數千箇ヲ生活セル眞珠介中ニ挿入シテ之ヲ養殖シタル事實及明細書記載ノ請求區域ノ記事ヲ認メ乍ラ進テ被告等ノ犯意ノ有無ヲモ審按セス漫然無罪ヲ言渡シタルハ前述ノ如ク裁判所ノ判斷ニ依リ消長ヲ來スコトナキ特許權ノ範圍ヲ不法ニ確定シタルノミナラス特許證ノ記載少クトモ其記載ヨリ當然推理セラルル結果ニ符合セサル事實ヲ確定シタル失當アリテ違法ノ裁判ナリト思料スト云ヒ」本院檢事林頼三郎上告趣意書第一特許ハ行政處分ニ依リ設定セラルルモノニシテ其範圍モ亦當該行政處分ニ依リテ定マルモノタルヤ辯ヲ要セス但裁判所ハ其管轄ニ屬スル事件ノ審理上必要ナル場合ニ於テハ特許命令ノ趣旨如何ヲ解釋シテ特許ノ範圍ヲ明カニスルノ權能ヲ有スルコト勿論ニシテ原判決ノ趣意モ亦特許命令ニ依リテ定マリタル範圍ヲ縮少制限セントスルニアラスシテ該命令ノ趣旨ハ眞珠貝ニ挿入スヘキ物件ヲ食鹽ヲ以テ磨クカ又ハ食鹽水ニ浸ス點ニ存シ球又ハ正半球或ハ小半球等球ノ一部ヲ切落シタルモノ若クハ砂粒等ノ媒介物ヲ眞珠貝ニ挿入スル點ハ特許ノ範圍外ナリト解釋スルニアルカ如シト雖モ特許命令ノ明白ナル文詞ノ趣旨ニ反シテ特許ノ範圍ヲ認ムルカ如キハ之レ全ク名ヲ解釋ニ藉リテ行政處分ニ依リ定マリタル特許ノ範圍ヲ縮少シ特許ノ效力ノ一部ヲ否認スルニ歸着スルモノニシテ解釋權ノ範圍ヲ超越セルモノタルヤ論ヲ竢タス而シテ原判決ノ解釋ハ特許證添附ノ明細書ニ記載セラレタル文詞ノ趣旨ニ明白ニ背戻スルモノナルコトハ原判決ノ説明自體ニヨリ明カナリ(殊ニ本件特許ニ付テハ北村重吉ヨリ請求ニ係ル特許無效審判請求事件竝ニ北村幸一郎長束七郎ヨリ請求ニ係ル特許權利確認審判請求事件ニ於テ右事項ハ有效ニ特許ノ範圍ニ屬スルモノト判斷セラレ該審決ハ確定シタリ)故ニ原判決ノ解釋ハ其根本ニ於テ不法ナルノミナラス解釋上ニ關シ尚左ノ不法ヲ存ス即チ第二原判決カ公知公用ニ屬ストノ事由ニ依リ直ニ之ヲ特許ノ範圍外ナリト解釋シタルハ違法ナリ何トナレハ特許法ハ公知公用ニ屬スル事項ト雖モ實際上特許ヲ與フルコトアルヘキヲ豫想シ而シテ如此場合ニ於テハ特許ハ其事項ノ範圍ニ於テモ當然無效ナルニアラスシテ審判ニ依リ無效ヲ宣告セラレ始メテ無效ニ歸スヘク其審判アル迄ハ特許權存立スルモノト爲シタルコトハ特許法第四十九條ノ規定ニ徴シ明白ニシテ要スルニ公知公用ノ事項ナリヤ否ヤノ事實ハ特許ノ無效ヲ宣告スヘキヤ否ヤノ審判上ノ問題ニ關係スルモノニシテ又時ニ或ハ特許權ノ侵害カ故意又ハ過失ニ出テタルヤ否ヤ等ノ事實上ノ判定ヲ必要トスル事案ニ於テ之カ判斷ノ資料トシテ參照セラルルコトアルヘシト雖モ特許ノ範圍内ナリヤ否ヤノ問題ニハ全ク交渉アルモノニアラス然レハ原院カ公知公用ニ屬ストノ事實ヲ唯一ノ根據ト爲シ特許ノ範圍外ナリト解釋シタルハ到底不法タルヲ免レス第三加之原判決カ球、正半球、小半球若クハ砂粒等ヲ眞珠貝ニ挿入シテ眞珠素質ヲ被着セシムル方法カ公知公用ニ屬ストノ理由ニ依リ一所切落シノ球ヲ挿入スル點ヲモ特許ノ範圍外ナリト判定シタルハ妄斷モ甚タシト謂フヘシ即チ一所切落シノ球ノ使用ハ其落出ノ數ヲ減シ眞珠素質ノ被着ヲ平等ナラシムルノミナラス介殼トノ聯絡薄弱ナル爲メ稍々球形ニ近キ眞珠ヲ形成スル等先人ノ想到セサル微妙ノ考案ニ屬スルモノニシテ眞珠形成ノ效果ニ於テ前數種ノ媒介物ノ如キ不完全ノモノニアラス故ニ右等ノ媒介物ヲ挿入スル事カ公知公用ニ屬ストノ理由ハ一所切落シノ球ヲ挿入スル事ヲ以テ公知公用ニ屬スルモノナルコトヲ斷スルニ足ラス原判決ハ一所切落シトハ正半球又ハ小半球等球ノ一部ヲ切落シタルモノナリト説明セリト雖モ一所切落シトハ正半球又ハ小半球ト異ナリ完球ノ一箇所ヲ小部分切落シタルモノヲ指稱スルモノニシテ正半球(二分ノ一球)小半球(四分ノ一球)ト全然別箇ノ形状ヲ爲シ眞珠形成上微妙ノ作用ヲ爲ス所以ノモノ全ク此獨特ノ形状ニ基クモノタリ然ルニ原判決カ一所切落シトハ正半球又ハ小半球等球ノ一部ヲ切落シタルモノ即チ前記公知公用ニ屬スル物件ヲ指稱スルニ外ナラサレハ云云ト獨斷シ何等據ル所ナクシテ之ヲ同一ノモノト認メ併セテ公知公用ニ屬シタルモノト爲シタルハ不法ニシテ少クトモ理由不備ノ違法アルヲ免レスト云フニ在リ◎因テ按スルニ事實裁判所カ被告事件ノ審理上特許權ノ範圍ヲ判定スル必要アル場合ニ特許明細書ノ記載ニ疑アルトキ他ノ證據ヲ參照シテ自由ナル判斷ニ依リ之カ解釋ヲ爲シ以テ特許權ノ範圍ヲ明ニスルハ證據ノ解釋ニ付キ事實裁判所ノ有スル職權ノ行使ニ外ナラス本件係爭ノ特許明細書ヲ閲スルニ特許權ノ範圍所論ノ如ク極メテ明白ナリト云フヲ得ス原院カ硝子貝殼其他ノ物ヲ以テ作リタル球又ハ正半球或ハ小半球等球ノ一部ヲ切落シタルモノ若クハ砂粒等ノ媒介物ヲ眞珠貝ニ挿入シテ眞珠素質ヲ被着セシムル人工眞珠養殖法ハ御木本幸吉カ特許ヲ得タル時即チ明治二十九年十月以前業ニ既ニ公刊物ニ依リ公表セラレ公知公用ニ屬スル事項ナルコトハ押收ノ各證據物件及ヒ辯護人提出ノ證據ニ依リ明ナルカ故ニ御木本幸吉ノ特許範圍ハ食鹽ヲ以テ磨クカ又ハ食鹽水ニ浸ス點ニ特許ヲ與ヘタルモノト認ムルヲ相當トス唯御木本幸吉ノ特許範圍中一所切落シナル從來未聞ノ文字ヲ用ヒ獨特ノ考案ニ係ルカ如キ觀ナキニ非スト雖モ一所切落シトハ正半球又ハ小半球等球ヲ一部ノ切落シタルモノ即チ前記公知公用ニ屬スル物件ヲ指稱スルニ外ナラサレハ御木本幸吉ノ考案ニ出テタル特種ノモノニ非ス若シ之ヲシテ特種ノ考案ニ爲レル特許ノ範圍ニ在ルモノトセハ之ト同列ニ在ル球モ亦特許ノ範圍ニ在ルモノト云ハサルヘカラスト判示シタルハ明細書ノ記載ニ疑アル爲メ原院カ事實裁判所トシテ證據解釋ノ職權ニ基キ他ノ證據ヲ參照シテ之カ解釋ヲ爲シ以テ特許權ノ範圍ヲ判定シタルモノニシテ其解釋タルヤ公知公用ニ屬スル事項ハ常ニ當然特許權ノ範圍外ニ在リトノ理由ヲ前提トシタルモノニ非サルヲ以テ不法ノ解釋ナリト云フヘカラサルハ勿論論旨ニ掲クル特許局ノ審決ノ如キハ司法裁判所ヲ覊束スルモノニ非サルヲ以テ原院ノ解釋ニシテ特許局ノ審決ト異ナル所アルモ之カ爲メニ原院ノ解釋ヲ不法ナリト云フヲ得ス其他論旨中一所切落シノ球ニ付云爲スル所アルモ之ヲ要スルニ論旨ハ何レモ原院ト證據ノ解釋ヲ異ニシ原判決ヲ攻撃スルモノニシテ其理由ナシ
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事鈴木宗言干與大正元年十一月五日大審院第一刑事部
明治四十五年(レ)第一五七二号
大正元年十一月五日宣告
◎判決要旨
- 一 事実裁判所が被告事件の審理上特許権の範囲を判定する必要ある場合に特許明細書の記載に疑あるとき他の証拠を参照して自由なる判断に依り之が解釈を為し以て特許権の範囲を明にするは証拠の解釈に付き事実裁判所の有する職権の行使に外ならず
第一審 松山地方裁判所西条支部
第二審 名古屋控訴院
右特許権侵害被告事件に付、明治四十五年六月二十四日名古屋控訴院に於て言渡したる判決に対し原院検事長手塚太郎は上告を為したり。
因で判決する左の如し
理由
本件上告は之を棄却す
原院検事長手塚太郎上告趣意書特許は新規なる工業的発明を為したる者に対し特許権を付与する所の行政処分にして発明者は其発明に依り当然特許権を有するものにあらず。
特許に依り始めて之を亨有すべきことは発明者をして特に当該行政庁に出願し其特許を受けしむるに徴して明かなり。
故に特許の出願に対する許可を決するは一に当該行政庁たる特許局の職権に属するものにして特許局以外の者をして毫も容喙せしむべきものにあらず。
而して特許局に於て苟くも特許を与ふべきものと認めたるときは之が出願者に対し特許証を交付し、且、之を特許原簿に登録し茲に始めて特許権の発生を見るべきものなるが故に特許権の効力範囲は一に特許証附属の明細書の請求区域に依りて定まるものとす。
即特許権の効力範囲は特許証と相待で一定不動のものにして決して司法裁判所の判断如何に依り其効力範囲に異動を来すものにあらず。
若仮りに局外者たる司法裁判所をして自由に其効力範囲に異動を来すべき判断を為すことを得せしむるに於ては特許の効力に重大なる影響を及ぼすべく。
従て法律が特許の出願に係る審査並に特許権の範囲確認の審判を特許局に一任したる所以の主旨を没却し遂に特許制度を破壊するの結果を生ずるに至るべし。
故に特許局が或特許権の効力範囲は甲或は二なりと云ふに拘はらず司法裁判所に於ては乙或は一なりと云ふことを許さず。
依て御木本幸吉の特許を受けたる第二六七〇号真珠素質被着法の特許証を按ずるに「特許条例に依り本発明の特許を請求する区域左の如し一、本文所記第一乃至第四の目的を達せしむるか為め硝子介殻又は此場合に在で硝子介殻と均しき用を為し得べき物質を以て球又は一所切落しの球を作り食塩を以て之を麿くか又は濃厚食塩水中に之を浸し然る後生活せる真珠介の中に挿入して真珠素質を被らしむべき方法」とあるを以て該特許の要部は硝子介殻等を以て球又は一所切落しの球を作ることと食塩を以て之を麿き又は濃厚食塩水中に之を浸すこととの二点にして、而して此二点こそ実に本発明が人工真珠培養法に改良を加へたるものとして特許を与へられたる骨子なりと云ふべけれ何となれば明細書中に掲げたる目的中の真珠素質の被着を平等ならしむることと珠と介殻との連絡薄弱なるか為めに稍球形に近き真珠を形成せしめ得ることとは主として一所切落しの球の使用に待たざるべからず。
従て前掲の方法にて食塩を使用する効果は単に真珠素質の分必を促進し、且、挿入したる核が介殻外に吐出せらるる割合を比較的減少するに過ぎざることを見るに足るべく其他御木本幸吉は本発明の要部は良好に真珠素質を被着する程度迄核の一部を切落す点にあることを証言し本件参考書類たる特許公報第一千四百三十四号中審判第一三七二号審決書の審決理由に「又球のみを生活する真珠介の中に挿入する方法及一所切落しの球を生活する真珠介の中に挿入する方法も亦本件特許の一要部に属するが故に本件特許の権利の範囲内にあるものとす。」云云同第一千四百三十三号中抗告審判第六十一号同上に「一所切落しの球の使用は従来当業者の想到せざる微妙の考案に基く新規の核と云はざるべからず。
故に半球形の核の使用が公知公用に属するとするも一所切落しの核は本件特許出願前公然知られ又は公然用ゐられたるものと云ふべからず。」云云とありて一所切落し等の球と食塩との使用は両者相待で不可分的効用を全うすること明にして該特許権の範囲中に一所切落しの球等の使用をも包含することは秋毫も疑ひなければなり。
然るに原審に於ては御木本幸吉の特許の範囲は唯食塩を以て麿き又は食塩水に浸す点のみにして一所切落し等の球の使用は特許の範囲にあらずと妄断し被告七郎外二名が判示の年月場所に於て蝶貝製の球又は半球(一部切落し)一万数千箇を生活せる真珠介中に挿入して之を養殖したる事実及明細書記載の請求区域の記事を認め乍ら進で被告等の犯意の有無をも審按せず漫然無罪を言渡したるは前述の如く裁判所の判断に依り消長を来すことなき特許権の範囲を不法に確定したるのみならず特許証の記載少くとも其記載より当然推理せらるる結果に符合せざる事実を確定したる失当ありて違法の裁判なりと思料すと云ひ」本院検事林頼三郎上告趣意書第一特許は行政処分に依り設定せらるるものにして其範囲も亦当該行政処分に依りて定まるものたるや弁を要せず。
但裁判所は其管轄に属する事件の審理上必要なる場合に於ては特許命令の趣旨如何を解釈して特許の範囲を明かにするの権能を有すること勿論にして原判決の趣意も亦特許命令に依りて定まりたる範囲を縮少制限せんとするにあらずして該命令の趣旨は真珠貝に挿入すべき物件を食塩を以て麿くか又は食塩水に浸す点に存し球又は正半球或は小半球等球の一部を切落したるもの若くは砂粒等の媒介物を真珠貝に挿入する点は特許の範囲外なりと解釈するにあるが如しと雖も特許命令の明白なる文詞の趣旨に反して特許の範囲を認むるが如きは之れ全く名を解釈に藉りて行政処分に依り定まりたる特許の範囲を縮少し特許の効力の一部を否認するに帰着するものにして解釈権の範囲を超越せるものたるや論を竢たず。
而して原判決の解釈は特許証添附の明細書に記載せられたる文詞の趣旨に明白に背戻するものなることは原判決の説明自体により明かなり。
(殊に本件特許に付ては北村重吉より請求に係る特許無効審判請求事件並に北村幸一郎長束七郎より請求に係る特許権利確認審判請求事件に於て右事項は有効に特許の範囲に属するものと判断せられ該審決は確定したり。
)故に原判決の解釈は其根本に於て不法なるのみならず解釈上に関し尚左の不法を存す。
即ち第二原判決が公知公用に属すとの事由に依り直に之を特許の範囲外なりと解釈したるは違法なり。
何となれば特許法は公知公用に属する事項と雖も実際上特許を与ふることあるべきを予想し、而して如此場合に於ては特許は其事項の範囲に於ても当然無効なるにあらずして審判に依り無効を宣告せられ始めて無効に帰すべく其審判ある迄は特許権存立するものと為したることは特許法第四十九条の規定に徴し明白にして要するに公知公用の事項なりや否やの事実は特許の無効を宣告すべきや否やの審判上の問題に関係するものにして又時に或は特許権の侵害が故意又は過失に出でたるや否や等の事実上の判定を必要とする事案に於て之が判断の資料として参照せらるることあるべしと雖も特許の範囲内なりや否やの問題には全く交渉あるものにあらず。
然れば原院が公知公用に属すとの事実を唯一の根拠と為し特許の範囲外なりと解釈したるは到底不法たるを免れず第三加之原判決が球、正半球、小半球若くは砂粒等を真珠貝に挿入して真珠素質を被着せしむる方法が公知公用に属すとの理由に依り一所切落しの球を挿入する点をも特許の範囲外なりと判定したるは妄断も甚たしと謂ふべし。
即ち一所切落しの球の使用は其落出の数を減じ真珠素質の被着を平等ならしむるのみならず介殻との連絡薄弱なる為め稍稍球形に近き真珠を形成する等先人の想到せざる微妙の考案に属するものにして真珠形成の効果に於て前数種の媒介物の如き不完全のものにあらず。
故に右等の媒介物を挿入する事が公知公用に属すとの理由は一所切落しの球を挿入する事を以て公知公用に属するものなることを断するに足らず原判決は一所切落しとは正半球又は小半球等球の一部を切落したるものなりと説明せりと雖も一所切落しとは正半球又は小半球と異なり。
完球の一箇所を小部分切落したるものを指称するものにして正半球(二分の一球)小半球(四分の一球)と全然別箇の形状を為し真珠形成上微妙の作用を為す所以のもの全く此独特の形状に基くものたり。
然るに原判決が一所切落しとは正半球又は小半球等球の一部を切落したるもの。
即ち前記公知公用に属する物件を指称するに外ならざれば云云と独断し何等拠る所なくして之を同一のものと認め併せて公知公用に属したるものと為したるは不法にして少くとも理由不備の違法あるを免れずと云ふに在り◎因で按ずるに事実裁判所が被告事件の審理上特許権の範囲を判定する必要ある場合に特許明細書の記載に疑あるとき他の証拠を参照して自由なる判断に依り之が解釈を為し以て特許権の範囲を明にするは証拠の解釈に付き事実裁判所の有する職権の行使に外ならず本件係争の特許明細書を閲するに特許権の範囲所論の如く極めて明白なりと云ふを得ず。
原院が硝子貝殻其他の物を以て作りたる球又は正半球或は小半球等球の一部を切落したるもの若くは砂粒等の媒介物を真珠貝に挿入して真珠素質を被着せしむる人工真珠養殖法は御木本幸吉が特許を得たる時即ち明治二十九年十月以前業に既に公刊物に依り公表せられ公知公用に属する事項なることは押収の各証拠物件及び弁護人提出の証拠に依り明なるが故に御木本幸吉の特許範囲は食塩を以て麿くか又は食塩水に浸す点に特許を与へたるものと認むるを相当とす。
唯御木本幸吉の特許範囲中一所切落しなる従来未聞の文字を用ひ独特の考案に係るが如き観なきに非ずと雖も一所切落しとは正半球又は小半球等球を一部の切落したるもの。
即ち前記公知公用に属する物件を指称するに外ならざれば御木本幸吉の考案に出でたる特種のものに非ず。
若し之をして特種の考案に為れる特許の範囲に在るものとせば之と同列に在る球も亦特許の範囲に在るものと云はざるべからずと判示したるは明細書の記載に疑ある為め原院が事実裁判所として証拠解釈の職権に基き他の証拠を参照して之が解釈を為し以て特許権の範囲を判定したるものにして其解釈たるや公知公用に属する事項は常に当然特許権の範囲外に在りとの理由を前提としたるものに非ざるを以て不法の解釈なりと云ふべからざるは勿論論旨に掲ぐる特許局の審決の如きは司法裁判所を羈束するものに非ざるを以て原院の解釈にして特許局の審決と異なる所あるも之が為めに原院の解釈を不法なりと云ふを得ず。
其他論旨中一所切落しの球に付、云為する所あるも之を要するに論旨は何れも原院と証拠の解釈を異にし原判決を攻撃するものにして其理由なし。
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す
検事鈴木宗言干与大正元年十一月五日大審院第一刑事部