明治四十五年(れ)第五六九號
明治四十五年四月二十二日宣告
◎判決要旨
- 一 恐喝ニ因リテ得タル財産上ノ利益カ消極的ニシテ而カモ一時的ニ止マリ永久的ニ之ヲ保持スル能ハス又積極的ニ利得スル所ナシトスルモ恐喝罪ノ成立ヲ妨クルモノニ非ス
右詐欺横領被告事件ニ付明治四十五年三月一日東京控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ被告ハ上告ヲ爲シタリ因テ判決スル左ノ如シ
理由
本件上告ハ之ヲ棄却ス
辯護人羽田智證田阪貞雄上告趣意書第一點原判決ハ其第一事實ニ於テ明治四十三年九月中上告人カ山田潤三ヲ恐喝シテ家屋立退ノ請求ヲ拒絶シ以テ不法ノ利益ヲ得タル旨判示セラレ其證據トシテ第一審公判始末書中證人山田潤三ノ證言ヲ援用シタレトモ同人ノ證言中原判決摘示ノ部分ニハ「明治四十三年八月頃ヨリ自分ハ十囘程被告人方ニ家賃ノ督促ニ赴キタルカ其際云云」トアリテ判示事實ノ如ク九月ニ恐喝ヲ爲シタル事實ノ記載ヲ發見セス惟フニ八月頃ヨリ十囘程トアルヲ以テ大凡九月中ナルヘシトノ推測ニ基キ此認定ヲ爲シタルモノナルヘシト雖モ其十囘被告宅ニ赴キタルハ一日中ナルヤ數日中ナルヤ將タ數月中ナルヤ不明ナリ從テ其間一个月ヲ費シタリトノ事實ヲ認定スルニ由ナキヲ以テ結局原判決ハ證據ニ基カスシテ犯罪事實ヲ推測シタル不法アルモノト思料スト云フニ在レトモ◎所論判示犯罪ノ時期ハ犯罪構成ノ事實ニ屬セサルヲ以テ原判決ニ於テ之ヲ認メタル證據ヲ明示セサルモ違法ニ非サルノミナラス所掲證據説明中「八月頃ヨリ十囘程被告方ニ家賃ノ督促ニ赴キタルカ云云」ノ供述ニ依リテ犯罪ノ時期ヲ九月頃ト判定シタルモノト爲スモ是レ實ニ原審ノ職權ニ屬スル證據解釋ノ作用ニ因ルモノニ外ナラサレハ其當否ヲ論爭シテ上告ノ理由ト爲スヲ得ス
第二點原判決ハ前記山田潤三ノ證言中何卒圓滿ニシテ呉レト申シタルニ被告ハ圓滿トハ何事ソト申シテ腕捲クリヲ爲シ左樣ナル請求ヲ受ケテハ名譽ヲ毀損セラレタルモノナレハ名譽囘復ヲ爲ササレハ此所ハ動ケヌト申シ又自分ハ法律ヲ三年間モ研究シ事理ヲ辨ヘ居ルト申シ證人ノ言ヲ聞入レストアル部分ヲ採用シテ恐喝ノ事實ヲ認定セラレタリ然レトモ虚心ニ此證言ヲ玩味セハ腕捲リノ如キハ八月孟夏ノ際ニシテ居常普通ノ事態ニシテ又法律研究云云ノ如キモ當然ノ事理ニシテ更ニ怪ムニ足ラス然レハ本犯罪認定ノ主タル基本ハ其名譽囘復云云ノ點ニ存スルヤ論ナシ而シテ其名譽囘復云云ノ文詞ノ如キモ又其言語自體ニ於テハ更ニ恐喝ノ手段タルニ足ルヘキ危險又ハ不穩ヲ意味セス若シ名譽毀損ノ事實アリトセハ之カ囘復ヲ計ルハ當然ニシテ犯罪ヲ構成スルニ足ラス然レハ此文句ニ依リテ恐喝ノ手段ナル不穩性若クハ危險性ヲ認メントセハ其此語ヲ挑發シタル證人ノ言語ノ内容ニ立入リテ果シテ名譽ヲ毀損スルモノナリヤ否ヤヲ確定セサルヘカラス然ルニ單ニ名譽囘復テフ一斷片ヲ捉ヘ之ニ證據以外ノ一喝激語等ノ形容詞ヲ附加シテ斷罪ノ資ト爲シタルハ沒常識ノ誹ヲ免レサル理由不備ノ判決ナリト信スト云フニ在レトモ◎本論旨ハ原審カ職權ヲ以テ爲シタル證據判斷ノ當否ヲ論難スルノ趣旨ニ歸スルヲ以テ適法ノ上告理由ト爲ラス
第三點凡ソ怒喝ノ既遂犯ニアリテハ被害者ヲ畏怖セシメタル事實アルコトヲ要ス然ルニ本件ニ於テ被害者タル山田潤三及其母サキカ上告人ノ言動ニ對シ畏怖シタル事實ナク又其證據ノ徴スヘキモノナシ只原判決ハ山田潤三ノ證言中「爭論ノ結果立退ヲ爲サシムレハ名譽囘復ヲスルナルヘシト思惟シ忍耐シ居レリ」トノ部分ヲ摘示セラレ恰モ恐怖シタルカ如ク髣髴セシメタルモ其實右證言調書ニハ「爭ツテ出セハ妻子カ不憫テアリ加之名譽囘復ヲスルダロウト思ヒ我慢ヲシテ置イテヤツタノテス」トアリテ寧口恩惠ニ出テ其名譽囘復ノ如キコトハ意ニ留メサルモ只面倒ナリト感シタリトノ意向明白ニシテ恐怖セリトノ事實ノ徴スヘキモノ更ニナシ又原判決ハ「被告ハ潤三ヲ恐喝シテ容易ニ再度ノ家賃請求ヲ爲スヲ得サラシメ」ト判示セラレタルモ其證據トシテ援用セラレタル證人山田潤三ノ調書中ニハ更ニ再度ノ請求ヲ爲スヲ得サリシトノ部分ナキノミナラス却テ「母」カ參リ子供ニ菓子ヲ買ヘト云ヒテ金ヲ遣リ喜ハセ人情ヲ掛ケテ催促ニ行キ云云中野モ人情ニカラマツテ昨年十二月ニ六十圓ヲ支拂ヒ呉レタノテ云云トアリテ全ク反對ノ記載アリ之ニ由リテ見ルモ原判決ハ單ニ被告人ニ利益ナル反證アルニ不拘之ヲ看過シテ不利ノ認定ヲ爲シタル不法アルノミナラス證據ニ依ラスシテ事實ヲ認定セラレタル不法アルモノト云ハサルヘカラスト云フニ在レトモ◎原判決ハ第一審公判始末書ニ於ケル證人山田潤三ノ供述記載ヲ援用シテ判示第一事實ヲ認メタル理由ヲ説明シアルヲ以テ證據ニ依ラスシテ犯罪事實ヲ認メタル違法アルコトナシ其他ハ原判決ニ於テ採用セサル證憑ヲ援引シ原審ノ職權ニ屬スル證據ノ取捨判斷ヲ非難スルモノニ外ナラサレハ適法ノ上告理由ト爲ラス
第四點恐喝罪ハ財物又ハ不法利益ノ取得ノ意思ヲ必要トス特ニ本件ニアリテハ家賃ノ支拂義務ヲ免除スルノ意思ナカルヘカラス然ルニ本件ニ於テ上告人ニ此意思アリタル事實ナク又證據ナシ却ツテ恐喝アリタリトスル四十三年八月以後即チ同年十二月中一時ニ金六十圓ヲ支拂ヒ(前審摘示山田潤三證
言)猶家賃ト差引ク約束ヲ以テ野口幽谷ノ幅ヲ交付シタル事實(同人證言)及「中野ハ金ヲ拂ハヌコトハナイ今現金カナイカラ掛物ヲ賣ツテ拂フト申シマシタ」トノ同人ノ證言ニ徴スルモ被告人ニ不法免脱ノ意思ナカリシコトヲ證スルニ足ル然ルニ四十三年九月ニ於テ既ニ恐喝ヲ遂ケタリト認定セラレタルハ證據ニ基カスシテ犯罪事實ヲ認定セラレタルハ違法アルト同時ニ反對ノ證據ヲ摘示援用シナカラ之レト相容レサル犯意ヲ認定セラレタルハ理由ニ矛盾アルモノト云ハサルヘカラスト云フニ在レトモ◎原判決ハ被告カ恐喝ニ因リテ家賃支拂及ヒ借屋返還ノ義務ヲ全然免脱シタル事實ヲ認定シタルモノニアラスシテ一時如上義務ノ履行ヲ免カレ不法ニ財産上ノ利益ヲ得タリト云フニ在ルヲ以テ所論ノ如キ意思ノ存在ヲ證明スルノ要ナシ而シテ原判決ニハ所掲證據ニ依リテ判示事實ヲ認メタル理由ヲ説明シアリテ所論ノ如ク證據ヲ明示セサル違法アルコトナシ要スルニ本論旨ハ原判決ノ採用セサル證憑ヲ援引シ原判決ノ事實認定ニ副ハサル攻撃ヲ爲スモノニシテ適法ノ上告理由ト爲ラス
第五點恐喝ノ既遂犯ニアリテハ財物又ハ不法ノ利益ヲ得タル事實ナカルヘカラス然レトモ本件ハ元來當事者間ニ家屋賃貸借契約成立シ貸主ハ其家屋ヲ使用セシムル民法上ノ債務ヲ負擔シ(上告人ノ權
利)借主タル上告人ハ其家賃ノ支拂ヲ爲スノ義務ヲ有スル純民事關係ニ過キス從テ之カ立退ノ請求ヲ受ケタリトスルモ民法第五百四十五條ニヨリ契約解除ニ基ク家屋返還ノ債務ヲ負擔スルニ過キス而シテ其返還義務ノ遲滯ハ不履行ニ基ク損害賠償權ヲ生スルニ止リ別ニ不法行爲ヲ成立セス而シテ此賠價義務ハ明渡ノ遲滯ニ依リ當然消滅セス又免除セラルヘキモノニアラサルヲ以テ上告人ハ其家賃ノ支拂ヲ延怠シタリトスルモ何等不法ニ利得スル所ナク我民法上絶對ニ其義務ヲ盡ササルヘカラス然ラハ恐喝ノ手段ヲ用ヒテ相手方ヲシテ家賃免除ノ意思表示ヲ爲サシメタリトノ認定ノ下ニ恐喝ヲ爲シタルモ其目的ヲ達セサリシトノ事案ヲ以テ本件ヲ恐喝未遂犯ニ問擬セラルルハ格別名譽囘復法律智識等ヲ標榜シテ家賃遲延ノ手段トナシタリト假定スルモ決シテ本罪ノ既遂ヲ成立スヘキ理由ナキナリ蓋シ法律ノ本案ニ付キ要求スル所ハ不法ニ利益ヲ得タルコト即チ債務ヲ免脱スルコトニアルモ民法第四百十六條ハ之ヲ認メス而シテ被告ハ本案ヲ否認スヘキ何等ノ權能ヲ有セサレハナリ結局原判決ハ民法上ノ法理ヲ看過シテ何等利得スル所ナキ上告人ニ對シ恐喝既遂ヲ認定セラレタルハ不法ナリト云フニ在レトモ◎刑法第二百四十九條第二項ニ所謂財産上ノ利益トハ積極的ナルト消極的ナルト將タ永久的ナルト一時的ナルト其種類及ヒ態樣ノ如何ヲ區別セス財産上ノ利益ヲ汎稱スルモノナルヲ以テ恐喝ニ因リテ得タル財産上ノ利益カ消極的ニシテ而カモ一時的ニ止リ永久的ニ之ヲ保持スル能ハス又積極的ニ利得スル所ナシトスルモ恐喝罪ノ成立ヲ妨クルモノニ非ス原判決ニ依レハ被告ハ家賃ノ支拂ヲ延滯シタルカ爲メニ家主ヨリ其支拂ト借家ノ返還トヲ請求セラルルヤ之ヲ恐喝シテ家主ヲシテ其請求ノ實行ヲ躊躇セシメ因テ被告ハ一時其義務履行ヲ免カレ財産上利益アル状態ニ措カレタルモノナレハ家主ヲシテ全然債務免除ノ意思ヲ表示セシメテ被告ニ於テ永久ニ債務ノ免脱ヲ得タル場合ニ非スト雖モ刑法ニ所謂不法ニ財産上ノ利益ヲ得タルモノニ外ナラス故ニ原判決カ被告ノ行爲ヲ恐喝罪ノ既遂ヲ以テ論シタルハ相當ニシテ所論ノ如ク違法アルモノニ非ス論旨ハ理由ナシ
第六點原判決ハ第二事實ニ於テ被告ハ明治四十三年十月青木頼茂ヨリ委託セラレタル幅ヲ十一月賣却シテ其代金ノ内四十圓ヲ横領シタリトノ事實ヲ認定シ證據説明ニ於テ「被告ハ當公廷ニ於テ判示ノ梁川星巖筆山水畫雙幅ヲ賣却シ其代金ヲ流用スルニ付テハ青木頼茂ノ承諾ヲ得タル旨ヲ爭フ外判示事實ヲ認メタルニ依リ」トアリ之ヲ調書ニ徴スルニ被告ハ同年十月ニ右畫幅ヲ預リタル事實ヲ認メタルコトナク却ツテ四五月頃ニ品ヲ受取リタリトアリテ事實ト證據ト一致セス是レ理由ニ矛盾アル判決ト謂ハサルヘカラスト云フニ在レトモ◎原判決ノ證據説明ハ不法領得ノ點ヲ除キ其他判示被告ノ行爲ヲ自認シタリト云フニ在リテ被告ノ原審ニ於ケル供述ヲ以テ所論年月ヲ認メタル資料ニ供シタル趣旨ニ非ス論旨ハ謂ハレナシ
辯護人羽田智證上告趣意書第一點原判決ハ理由不備ノ違法アルヲ免レサル失當アリ本件被告ノ第一事實ニ對シ原判決ハ左ノ如ク事實ヲ判定シタリ明治四十三年九月頃潤三ハ延滯賃料五十圓ノ支拂及立退ヲ求ムル爲メ被告人方ニ到リ暗ニ其意ヲ告ケタルニ被告人ハ直ニ何事ソト一喝シテ腕捲ヲ爲シ斯ル請求ヲ爲スハ我名譽ヲ毀損スルモノナルカ故ニ名譽囘復ヲナス迄此家ヲ立退カサルヘシ且我ハ三年間モ法律ヲ研究シテ事理ヲ辨ヘ居ルモノナル旨激語シ以テ潤三ヲ恐喝シテ之ヲ畏怖セシメ又タ「明治四十四年三月頃潤三ノ母カ同四十三年七月以後ノ賃料ノ支拂及被告ノ立退ヲ要求セントシ被告人方ニ立越シ立退料ノ事ヲ語リタルニ被告人ハ尚恐喝ノ意思ヲ繼續シテ右母ニ對シ我ハ紳士ナリ苟モ紳士タルモノカ家賃ノ支拂ハ之ヲ爲スト云フニ尚之ニ立退ヲ迫ルハ紳士ノ體面ヲ汚スモノナリ故ニ強テ立退ヲ求ムルナラハ立退料トシテ二三百圓ヲ申受クヘキ旨ヲ告ケ母及潤三ヲ畏怖セシメ容易ニ請求ヲ爲スヲ得サラシメ以テ連續シテ財産上不法ノ利益ヲ得」ト判示シタリ而シテ之カ認定ヲナシタル證據ヲ見ルニ右判示ノ如ク山田潤三及母ハ恐怖心ヲ起シタル事實ハ證據上毫モ見ルヘキ點ナキノミナラス被告人カ潤三及其母ニ對シ恐喝ヲ爲シタル事實ハ證據上見ルヘキモノナキヲ以テ原判決ノ犯罪事實ノ認定ハ全然證據ニ依リタルモノニ非サルコト明ニシテ理由不備ノ判決タル失當ノ判決ナリト思料スト云フニ在レトモ◎原判決ハ第一審公判始末書中證人山田潤三ノ供述記載ヲ援用シ所論判示事實ヲ認メタル理由ヲ明示セルヲ以テ理由不備ノ違法アルモノニ非ス本論旨ハ究竟原審ノ證據判斷ヲ批難スルモノニシテ適法ノ上告理由ト爲ラス
第二點原判決ハ法律ヲ適用セサル違法アリ本件被告事件ノ第二ノ事實ハ原判決ハ横領ノ所爲アリトシ刑法第二百五十二條第一項ニヨリテ刑ヲ適用セラレタリ然レトモ本横領ノ所爲ハ被告人ニ横領ノ意思アルヤ否ハ本件有罪無罪ノ由リテ岐ルル所ニシテ辯護人ハ證人青木頼茂ノ證言(原判決ノ援用シタルモノ)ヲ採リテ以テ刑法第三十八條ノ犯罪不成立ノ原因アルコトヲ論述シタリ何トナレハ證人青木頼茂ハ其證人ノ供述トシテ畫幅ノ賣却代金ハ被告ニ流用スルコトヲ許容シタルコトナキモ被告ハ流用シテ差支ナキコトト解シタルヤモ難計ト證言シ居ルヨリ見ルトキハ證人ノ證言ハ被告人ノ心裡的作用トシテ横領ノ意思ナキコトヲ證言シタルモノニ外ナラス然ルニモ不拘此等ノ利益ノ證言ヲ無視シ單ニ許容セサル旨ノ片言ヲ採リ以テ斷罪ノ資料ニ供シ犯罪ノ意思ノ有無ニ對シ判斷ヲ爲ササルハ法則ノ適用ヲ爲ササル違法アリト言ハサル可ラスト云フニ在レトモ◎原判決ニハ被告カ其占有セル他人ノ財物ヲ不法ニ領得シタル事實ヲ判定シアルヲ以テ其犯意ヲ認メタルモノナルヤ勿論ナリ本論旨ハ要スルニ原審ノ職權ニ依リテ爲シタル證據ノ取捨判斷ヲ論爭スルノ趣旨ニ歸スルヲ以テ適法ノ上告理由ト爲ラス
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事林頼三郎干與明治四十五年四月二十二日大審院第二刑事部
明治四十五年(レ)第五六九号
明治四十五年四月二十二日宣告
◎判決要旨
- 一 恐喝に因りて得たる財産上の利益が消極的にして而かも一時的に止まり永久的に之を保持する能はず又積極的に利得する所なしとするも恐喝罪の成立を妨ぐるものに非ず
右詐欺横領被告事件に付、明治四十五年三月一日東京控訴院に於て言渡したる判決に対し被告は上告を為したり。
因で判決する左の如し
理由
本件上告は之を棄却す
弁護人羽田智証田坂貞雄上告趣意書第一点原判決は其第一事実に於て明治四十三年九月中上告人が山田潤三を恐喝して家屋立退の請求を拒絶し以て不法の利益を得たる旨判示せられ其証拠として第一審公判始末書中証人山田潤三の証言を援用したれども同人の証言中原判決摘示の部分には「明治四十三年八月頃より自分は十回程被告人方に家賃の督促に赴きたるか其際云云」とありて判示事実の如く九月に恐喝を為したる事実の記載を発見せず惟ふに八月頃より十回程とあるを以て大凡九月中なるべしとの推測に基き此認定を為したるものなるべしと雖も其十回被告宅に赴きたるは一日中なるや数日中なるや将た数月中なるや不明なり。
従て其間一个月を費したりとの事実を認定するに由なきを以て結局原判決は証拠に基かずして犯罪事実を推測したる不法あるものと思料すと云ふに在れども◎所論判示犯罪の時期は犯罪構成の事実に属せざるを以て原判決に於て之を認めたる証拠を明示せざるも違法に非ざるのみならず所掲証拠説明中「八月頃より十回程被告方に家賃の督促に赴きたるか云云」の供述に依りて犯罪の時期を九月頃と判定したるものと為すも是れ実に原審の職権に属する証拠解釈の作用に因るものに外ならざれば其当否を論争して上告の理由と為すを得ず。
第二点原判決は前記山田潤三の証言中何卒円満にして呉れと申したるに被告は円満とは何事そと申して腕捲くりを為し左様なる請求を受けては名誉を毀損せられたるものなれば名誉回復を為さざれば此所は動けぬと申し又自分は法律を三年間も研究し事理を弁へ居ると申し証人の言を聞入れずとある部分を採用して恐喝の事実を認定せられたり。
然れども虚心に此証言を玩味せば腕捲りの如きは八月孟夏の際にして居常普通の事態にして又法律研究云云の如きも当然の事理にして更に怪むに足らず。
然れば本犯罪認定の主たる基本は其名誉回復云云の点に存するや論なし。
而して其名誉回復云云の文詞の如きも又其言語自体に於ては更に恐喝の手段たるに足るべき危険又は不穏を意味せず。
若し名誉毀損の事実ありとせば之が回復を計るは当然にして犯罪を構成するに足らず。
然れば此文句に依りて恐喝の手段なる不穏性若くは危険性を認めんとせば其此語を挑発したる証人の言語の内容に立入りて果して名誉を毀損するものなりや否やを確定せざるべからず。
然るに単に名誉回復てふ一断片を捉へ之に証拠以外の一喝激語等の形容詞を附加して断罪の資と為したるは没常識の誹を免れざる理由不備の判決なりと信ずと云ふに在れども◎本論旨は原審が職権を以て為したる証拠判断の当否を論難するの趣旨に帰するを以て適法の上告理由と為らず
第三点凡そ怒喝の既遂犯にありては被害者を畏怖せしめたる事実あることを要す。
然るに本件に於て被害者たる山田潤三及其母さきか上告人の言動に対し畏怖したる事実なく又其証拠の徴すべきものなし只原判決は山田潤三の証言中「争論の結果立退を為さしむれば名誉回復をするなるべしと思惟し忍耐し居れり。」との部分を摘示せられ恰も恐怖したるが如く髣髴せしめたるも其実右証言調書には「争って出せば妻子が不憫てあり加之名誉回復をするだろうと思ひ我慢をして置いてやったのでず」とありて寧口恩恵に出で其名誉回復の如きことは意に留めざるも只面倒なりと感したりとの意向明白にして恐怖せりとの事実の徴すべきもの更になし又原判決は「被告は潤三を恐喝して容易に再度の家賃請求を為すを得さらしめ」と判示せられたるも其証拠として援用せられたる証人山田潤三の調書中には更に再度の請求を為すを得ざりしとの部分なきのみならず却て「母」が参り子供に菓子を買へと云ひて金を遣り喜はせ人情を掛けて催促に行き云云中野も人情にからまって昨年十二月に六十円を支払ひ呉れたので云云とありて全く反対の記載あり之に由りて見るも原判決は単に被告人に利益なる反証あるに不拘之を看過して不利の認定を為したる不法あるのみならず証拠に依らずして事実を認定せられたる不法あるものと云はざるべからずと云ふに在れども◎原判決は第一審公判始末書に於ける証人山田潤三の供述記載を援用して判示第一事実を認めたる理由を説明しあるを以て証拠に依らずして犯罪事実を認めたる違法あることなし其他は原判決に於て採用せざる証憑を援引し原審の職権に属する証拠の取捨判断を非難するものに外ならざれば適法の上告理由と為らず
第四点恐喝罪は財物又は不法利益の取得の意思を必要とす。
特に本件にありては家賃の支払義務を免除するの意思なかるべからず。
然るに本件に於て上告人に此意思ありたる事実なく又証拠なし。
却って恐喝ありたりとする四十三年八月以後即ち同年十二月中一時に金六十円を支払ひ(前審摘示山田潤三証
言)猶家賃と差引く約束を以て野口幽谷の幅を交付したる事実(同人証言)及「中野は金を払はぬことはない今現金かないから掛物を売って払ふと申しました。」との同人の証言に徴するも被告人に不法免脱の意思なかりしことを証するに足る然るに四十三年九月に於て既に恐喝を遂けたりと認定せられたるは証拠に基かずして犯罪事実を認定せられたるは違法あると同時に反対の証拠を摘示援用しながら之れと相容れざる犯意を認定せられたるは理由に矛盾あるものと云はざるべからずと云ふに在れども◎原判決は被告が恐喝に因りて家賃支払及び借屋返還の義務を全然免脱したる事実を認定したるものにあらずして一時如上義務の履行を免がれ不法に財産上の利益を得たりと云ふに在るを以て所論の如き意思の存在を証明するの要なし。
而して原判決には所掲証拠に依りて判示事実を認めたる理由を説明しありて所論の如く証拠を明示せざる違法あることなし要するに本論旨は原判決の採用せざる証憑を援引し原判決の事実認定に副はざる攻撃を為すものにして適法の上告理由と為らず
第五点恐喝の既遂犯にありては財物又は不法の利益を得たる事実なかるべからず。
然れども本件は元来当事者間に家屋賃貸借契約成立し貸主は其家屋を使用せしむる民法上の債務を負担し(上告人の権
利)借主たる上告人は其家賃の支払を為すの義務を有する純民事関係に過ぎず。
従て之が立退の請求を受けたりとするも民法第五百四十五条により契約解除に基く家屋返還の債務を負担するに過ぎず。
而して其返還義務の遅滞は不履行に基く損害賠償権を生ずるに止り別に不法行為を成立せず。
而して此賠価義務は明渡の遅滞に依り当然消滅せず又免除せらるべきものにあらざるを以て上告人は其家賃の支払を延怠したりとするも何等不法に利得する所なく我民法上絶対に其義務を尽さざるべからず。
然らば恐喝の手段を用ひて相手方をして家賃免除の意思表示を為さしめたりとの認定の下に恐喝を為したるも其目的を達せざりしとの事案を以て本件を恐喝未遂犯に問擬せらるるは格別名誉回復法律智識等を標榜して家賃遅延の手段となしたりと仮定するも決して本罪の既遂を成立すべき理由なきなり。
蓋し法律の本案に付き要求する所は不法に利益を得たること。
即ち債務を免脱することにあるも民法第四百十六条は之を認めず。
而して被告は本案を否認すべき何等の権能を有せざればなり。
結局原判決は民法上の法理を看過して何等利得する所なき上告人に対し恐喝既遂を認定せられたるは不法なりと云ふに在れども◎刑法第二百四十九条第二項に所謂財産上の利益とは積極的なると消極的なると将た永久的なると一時的なると其種類及び態様の如何を区別せず財産上の利益を汎称するものなるを以て恐喝に因りて得たる財産上の利益が消極的にして而かも一時的に止り永久的に之を保持する能はず又積極的に利得する所なしとするも恐喝罪の成立を妨ぐるものに非ず原判決に依れば被告は家賃の支払を延滞したるか為めに家主より其支払と借家の返還とを請求せらるるや之を恐喝して家主をして其請求の実行を躊躇せしめ因で被告は一時其義務履行を免がれ財産上利益ある状態に措かれたるものなれば家主をして全然債務免除の意思を表示せしめて被告に於て永久に債務の免脱を得たる場合に非ずと雖も刑法に所謂不法に財産上の利益を得たるものに外ならず。
故に原判決が被告の行為を恐喝罪の既遂を以て論したるは相当にして所論の如く違法あるものに非ず論旨は理由なし。
第六点原判決は第二事実に於て被告は明治四十三年十月青木頼茂より委託せられたる幅を十一月売却して其代金の内四十円を横領したりとの事実を認定し証拠説明に於て「被告は当公廷に於て判示の梁川星岩筆山水画双幅を売却し其代金を流用するに付ては青木頼茂の承諾を得たる旨を争ふ外判示事実を認めたるに依り」とあり之を調書に徴するに被告は同年十月に右画幅を預りたる事実を認めたることなく却って四五月頃に品を受取りたりとありて事実と証拠と一致せず是れ理由に矛盾ある判決と謂はざるべからずと云ふに在れども◎原判決の証拠説明は不法領得の点を除き其他判示被告の行為を自認したりと云ふに在りて被告の原審に於ける供述を以て所論年月を認めたる資料に供したる趣旨に非ず論旨は謂はれなし
弁護人羽田智証上告趣意書第一点原判決は理由不備の違法あるを免れざる失当あり本件被告の第一事実に対し原判決は左の如く事実を判定したり。
明治四十三年九月頃潤三は延滞賃料五十円の支払及立退を求むる為め被告人方に到り暗に其意を告げたるに被告人は直に何事そと一喝して腕捲を為し斯る請求を為すは我名誉を毀損するものなるが故に名誉回復をなす迄此家を立退かざるべし、且、我は三年間も法律を研究して事理を弁へ居るものなる旨激語し以て潤三を恐喝して之を畏怖せしめ又た「明治四十四年三月頃潤三の母が同四十三年七月以後の賃料の支払及被告の立退を要求せんとし被告人方に立越し立退料の事を語りたるに被告人は尚恐喝の意思を継続して右母に対し我は紳士なり。
苟も紳士たるものが家賃の支払は之を為すと云ふに尚之に立退を迫るは紳士の体面を汚すものなり。
故に強で立退を求むるならば立退料として二三百円を申受くべき旨を告げ母及潤三を畏怖せしめ容易に請求を為すを得さらしめ以て連続して財産上不法の利益を得」と判示したり。
而して之が認定をなしたる証拠を見るに右判示の如く山田潤三及母は恐怖心を起したる事実は証拠上毫も見るべき点なきのみならず被告人が潤三及其母に対し恐喝を為したる事実は証拠上見るべきものなきを以て原判決の犯罪事実の認定は全然証拠に依りたるものに非ざること明にして理由不備の判決たる失当の判決なりと思料すと云ふに在れども◎原判決は第一審公判始末書中証人山田潤三の供述記載を援用し所論判示事実を認めたる理由を明示せるを以て理由不備の違法あるものに非ず本論旨は究竟原審の証拠判断を批難するものにして適法の上告理由と為らず
第二点原判決は法律を適用せざる違法あり。
本件被告事件の第二の事実は原判決は横領の所為ありとし刑法第二百五十二条第一項によりて刑を適用せられたり。
然れども本横領の所為は被告人に横領の意思あるや否は本件有罪無罪の由りて岐るる所にして弁護人は証人青木頼茂の証言(原判決の援用したるもの)を採りて以て刑法第三十八条の犯罪不成立の原因あることを論述したり。
何となれば証人青木頼茂は其証人の供述として画幅の売却代金は被告に流用することを許容したることなきも被告は流用して差支なきことと解したるやも難計と証言し居るより見るときは証人の証言は被告人の心裡的作用として横領の意思なきことを証言したるものに外ならず。
然るにも不拘此等の利益の証言を無視し単に許容せざる旨の片言を採り以て断罪の資料に供し犯罪の意思の有無に対し判断を為さざるは法則の適用を為さざる違法ありと言はざる可らずと云ふに在れども◎原判決には被告が其占有せる他人の財物を不法に領得したる事実を判定しあるを以て其犯意を認めたるものなるや勿論なり。
本論旨は要するに原審の職権に依りて為したる証拠の取捨判断を論争するの趣旨に帰するを以て適法の上告理由と為らず
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す
検事林頼三郎干与明治四十五年四月二十二日大審院第二刑事部