明治四十三年(れ)第二七三七號
明治四十四年三月九日宣告
◎判決要旨
- 一 欺罔手段ヲ施シ人ヲシテ不動産所有權ノ移轉ヲ承諾スル意思表示ヲ爲サシメタルトキハ詐欺既遂罪ヲ構成シ而シテ其登記又ハ引渡ヲ完了スルカ如キハ本罪ノ成立要件ニ屬セス
右詐欺取財未遂被告事件ニ付明治四十三年十一月七日大阪控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ被告ハ上告ヲ爲シタリ因テ判決スルコト左ノ如シ
理由
本件上告ハ之ヲ棄却ス
辯護人横山鑛太郎上告趣意書第一凡ソ不動産騙取罪ノ既遂ハ其不動産ノ登記名義ヲ被騙取者ヨリ移付セシメ乃チ其不動産ニ對スル形式上ノ支配權ヲ獲得スルカ或ハ被騙取者ヲシテ不動産ニ對スル事實上ノ支配權ヲ廢シテ之ヲ他ニ移サシムルカノ外アルヘカラス換言スレハ形式上又ハ事實上不動産ノ支配權ヲ獲得シタル場合ナラサルヘカラス原判決ハ本件ハ上告人カ松尾泰次郎ヨリ稻澤秀松名義ノ依リ不動産ヲ騙取シタル犯罪ナリトシ事實ヲ認定シテ「被告源太郎ハ其親族稻澤吉松ヨリ同人所有ニ係ル兵庫縣加古郡高砂町字木曾乙五百三番ノ一畑二反九畝二十二歩ノ處分方ヲ委託サレ居タル處同部母里村ノ内野谷新村松尾泰次郎カ其所有ノ同縣印南郡米田村ノ内島村大字末吉前六百九十番田一反一畝四歩外二十八筆反別合計二町二畝歩餘ヲ買却スル旨聞知シ(中畧)而シテ其際源太郎ハ泰次郎嘉藏ニ對シ泰次郎所有ノ前記地所ハ稻澤秀松ニ於テ一反歩ニ付キ百六十四圓五十錢ノ割合ニテ買取ルヘク秀松所有ノ畑地ハ高砂町三好文吉ニ一坪ニ付キ二圓四十錢ニテ賣却ノ約定成立シ居ルモ文吉ハ目下上阪不在ニ付キ至急呼戻シ代金ヲ受取リテ貴方ニ支拂ヘク殘金六百圓餘ハ假ニ右兩地所ヲ交換シタル旨ノ契約書ヲ作成シ銀主ニ一覽セシムレハ直ニ借受ケ貴方ニ支拂ヲ爲シ得ル故其通リニ取計ヒ呉レト云ヒ且上阪中ノ文吉ニ電報ヲ發シタルカ如ク裝ヒ泰次郎ヲ欺罔シ同人ヲシテ右約定ノ下ニ前記所有地ヲ秀松ヘ賣渡シタル旨ノ意思表示ヲ爲シ次ニ翌十七日加古川町公證人山崎竹藏役場ニ出頭ノ上泰次郎秀松間ニ右地所ノ交換契約成立シタルニ付テハ同月二十五日迄ニ各自地所ノ引渡ヲナスヘク之ニ違背シタルモノハ違約者トシテ金三百圓ヲ支拂フ旨ノ公正證書作成ノ手續ヲナサシメ豫期ノ如ク地所騙取ノ目的ヲ遂ケ而シテ其後種種ノ口實ヲ設ケ代金ヲ支拂ハサリシタメ泰次郎ハ被告等ノ奸策ヲ覺リ右期日ニ地所ノ引渡ヲナササリシ處源太郎ハ進テ泰次郎ヲ違約者ナリト主張シ秀松ニ代リテ前記公正證書ニ執行文ヲ受ケ云云」ト臼ヘリ之ニヨルトキハ右交換契約公正證書ノ作成ニ依リテ本件地所ノ騙取ヲ遂ケタリトセラレタルモ此際其登記名義ノ移付ヲ受ケタリト云フニ在ラス又其土地支配權ノ事實上ノ移轉即チ所謂引渡ハ其公正證書作成ノ日ニアラスシテ一週間餘ノ以後タル二十五日タルヘキ約ナリシノミナラス該期日ニ至リ泰次郎ハ遂ニ其引渡ヲナササリシ事實ナリシコト實ニ右認定ノ如クニシテ上告人ハ稻澤秀松名義ニ依リ本件土地ニ付寸時モ形式上又ハ事實上ノ支配權ヲ取得シタリト認メ得ヘキ點更ニ之ナシ然ルニ原判決ハ前掲ノ如ク公正證書ノ作成ト同時ニ騙取ヲ遂ケタルモノナリトセラレタルハ不動産騙取ニ關スル法律ヲ誤解セル失當アリト謂ハサルヘカラス又原判決ハ前記ノ如ク公正證書ノ作成ニ依リテ不動産ノ騙取ヲ遂ケタリトセラレタルモ右交換契約公正證書ハ當事者間ニ於テ相通シテ爲シタル虚僞ノ意思表示ナリトセラレタルコト前示原判文中ノ「假リニ右兩地所ヲ交換シタル旨ノ契約書ヲ作成シ云云」トアルニ徴シ明カナルニヨリ當事者間ニ就キ之ヲ見ルトキハ松尾泰次郎ハ假契約ニ交換ノ目的タル不動産ノ權利移轉ヲ諾シ稻澤秀松名義ヲ以テセル上告人ハ又其假裝ナルコトヲ告白シテ其權利ノ移轉ヲ受ケタル事態タルニ歸スルヲ以テ此間松尾泰次郎ニ付テハ毫モ權利移轉ニ關シ錯誤ニ陷リ居タリト觀念シ得ヘキ點ナシ故ニ如斯通謀的假裝ノ公正證書ノ作成ニ依リ上告人カ泰次郎ヲ欺罔シテ不動産ノ所有權ヲ移轉セシメタリト謂フ能ハサルコト實ニ明白ナリ若シ右ノ如キ相通シテ爲シタル虚僞ノ交換契約ニ基キ單ニ泰次郎ノ所有不動産上ニ假裝的ノ所有權ヲ得タルニ過キサル上告人カ其當初ノ約ニ反シ其契約ヲ眞實ナリト主張シタルカ如キ場合アリトセハ茲ニ上告人ハ秀松ノタメニ假裝的ニ取得シ居リシ泰次郎所有ノ不動産ノ横領ヲ企テタルモノナリト見做ナルヘキ状態ニ至ルヘシト雖モ這ハ原判決ノ全ク認メサル所ニ屬ス之ヲ要スルニ通謀假裝ノ行爲ハ當事者間ニ於テハ飽クマテ架空ニシテ其レ自體ニ設權的效果ヲ發生スヘキ謂レナシト斷定セサルヘカラス叙上ノ如クナルヲ以テ原判決ハ不動産ノ騙取ヲ認メタル事實上ノ理由ヲ完備セサル失當ノ裁判ナリト信スト云フニ在リテ◎原判決ヲ査スルニ事實認定ノ部ニ記載スル所ハ洵ニ論旨ニ掲クルカ如キモノアリト雖モ詐欺ノ既遂罪ヲ構成スルニ動産ニ在テハ欺罔手段ヲ施シ人ヲシテ之ヲ引渡サシムルヲ必要トスレトモ不動産ニ在テハ然ラス苟モ欺罔手段ヲ施シ人ヲシテ之カ所有權ヲ移轉スルコトヲ承諾スル意思表示ヲ爲サシムレハ足ル登記又ハ引渡ヲ完了スルカ如キハ其構成ノ要件ニアラス是レ本院ノ判例トシテ既ニ屡次判示スル所ナリ今原判決ノ認ムル事實ニ依レハ被告ハ松尾泰次郎ニ欺罔手段ヲ施シ同人ヲシテ所有地ヲ稻澤秀松ニ賣渡スコトヲ承諾スル意思表示ヲ爲サシメタルモノナレハ即チ同人ヲシテ不動産所有權ノ移轉ヲ承諾スル意思表示ヲ爲サシメタルモノニシテ右被告ノ行爲ハ刑法第二百四十六條第一項ニ掲クル詐欺ノ既遂罪ニ該當ス顧フニ原判決ノ事實判示ニ於テ被告カ泰次郎ヲシテ前記ノ如ク地所賣渡ヲ承諾セシメタル旨ヲ掲ケ次ニ泰次郎ヲシテ假裝ノ地所交換契約ニ違約金支拂ノ約款ヲ附シタル公正證書作成ノ手續ヲ爲サシメタルコトヲ掲ケ然ル後豫期ノ如ク騙取ノ目的ヲ遂ケタルコトヲ説示スルハ叙事明晰ヲ欠ク嫌ナキニアラサルモ熟々其趣旨ノ在ル所ヲ討究スルニ被告カ意思繼續シテ違約金ヲ騙取セントシタル事實ヲ叙述スル前提ト爲サン爲メ公正證書作成ニ關スル事項ヲ掲ケタルニ過キスシテ不動産ノ騙取ノ時期ハ曩キニ賣渡ヲ承諾セシメタル時ニ在ルコトヲ認メタルモノト解釋スルニ難カラス從テ原判決カ被告ヲ不動産騙取ノ行爲アルモノト認メ詐欺ノ既遂罪ニ問擬シタルハ正當ニシテ原判決ニハ所論ノ如キ違法アルコトナク本論旨ニ於テ原判決ヲ批難スル點ハ皆判旨ニ副ハサル攻撃ナレハ上告ノ理由ト爲ラス
第二原判決ノ事實認定ニ從フ時ハ上告人ハ松尾泰次郎ヲ欺罔シテ同人ト稻澤秀松間ニ土地交換契約公正證書ヲ作成シ之ニ依テ泰次郎所有ノ土地ヲ秀松ノタメニ騙取シ次ニ泰次郎カ右公正證書ノ約旨ニ背キ土地ノ引渡ヲ爲ササリシヲ以テ是亦公正證書ノ約款タリシ違約金三百圓請求ノタメ泰次郎所有ノ動産ノ差押ヲ爲シタルモ泰次郎ノ告訴スル所トナリ騙取ノ目的ヲ遂ケサリシモノナリト曰ヒ前者ハ詐欺既遂後者ハ詐欺未遂ノ各犯罪ナリトシ刑法第五十五條ニ依ル連續犯ニ擬セラレタリ然レトモ此所謂犯行ナルモノハ孰レモ一箇ノ公正證書ニ依ル交換契約ノ履行ト不履行トノ結果ニ依ル作用ノ發現ニ該リ而カモ表見上二箇ノ別異ナル態樣ヲ有スルカ如キモ法律上ニ於テハ之ヲ包括的ニ觀察シテ單一ノ犯罪行爲ナリト見做スヲ至當トス然ルニ原判決ハ之ヲ連續犯ナリト斷シ其法條ヲ適用シタルハ違法ニシテ擬律錯誤ノ裁判ナリト云フニ在レトモ◎原判決ヲ査スルニ其認ムル事實ニ依レハ被告ハ泰次郎ヲ欺キ交換又ハ賣買名義ノ下ニ同人所有ノ地所ヲ騙取セント企圖シ先ツ賣買名義ノ下ニ該地所ノ騙取ヲ遂ケ次ニ犯意ヲ繼續シ泰次郎カ前記地所ニ關スル假裝ノ交換契約ニ對シ恰モ違約ヲ爲シタルカ如ク詐リ違約金三百圓ヲ騙取セントシテ遂ケサリシモノナレハ右二箇ノ行爲ハ前者ニ在テハ詐欺ノ既遂罪ニ後者ニ在テハ其未遂罪ニ該當シ即チ同一ノ罪名ニ觸ルルヲ以テ刑法第五十五條ニ依リ連續犯トシテ一罪ヲ構成スルコト疑ヲ容レス本論旨ニ於テ原判決ヲ批難スル點ハ判示ニ副ハサル攻撃ナレハ上告ノ理由ト爲ラス
第三原判決ニハ證人松尾泰次郎豫審訊問調書ヲ理由ニ引用シアリ一件記録ニ付キ査閲スルニ同調書ハニ囘ニ渉リ第一囘ハ明治四十二年十二月二十三日第二囘ハ其翌二十四日ニシテ其第二囘調書ノ末尾ニ「(問)目下秀松ヨリ證人ニ對スル強制執行ハ停止中ナルヤ(答)今申立ツル次第テ餘儀ナク本年十月七八日頃保證金ヲ三百圓程積立テマシテ停止中テアリマス」トノ問答記載アリ之レニ依レハ松尾泰次郎ハ上告人カ秀松名義ニテ泰次郎ニ對シ爲シタル本件違約金三百圓ノ強制執行(原判決ノ所謂詐欺未遂ノ犯罪事實)ニ對シ明治四十二年十月七八日頃原告トシテ強制執行異議ノ訴ヲ提起シ同時ニ強制執行停止命令ヲ得テ其停止ヲ爲シタルモノニシテ而モ上記證人トシテノ第二囘訊問ノ當時即チ明治四十二年十二月二十四日ハ其停止ノ繼續中ナリト云フニ依リテ推ストキハ右執行異議ノ訴訟ハ泰次郎カ證人トシテ豫審ノ訊問ヲ受ケタル第一囘第二囘ノ當時孰レモ裁判所ニ繋屬中ナリシコト明カラリ然ラハ同人ハ正ニ刑事訴訟法第百二十三條第一號ノ民事原告人ニ該當スルモノト解セサルヘカラス從テ同人ハ本件ニ付テハ證人資格ヲ欠ケルモノナルニ拘ハラス之ヲ證人トシテ訊問セラレタルハ違法ニシテ其調書ハ總テ無效ナリ故ニ原院カ之ヲ援用シテ斷罪セラレタルハ採證ヲ誤リタル失當ノ裁判ナリト謂ハサルヘカラスト云フニ在レトモ◎記録ヲ査スルニ松尾泰次郎ハ本件違約金三百圓ノ強制執行トシテ同人ノ有體動産ヲ差押ヘタルニ對シ異議ノ訴ヲ提起シタルモノナレハ右異議ノ訴自體ニ依リ其犯罪ヲ原因トシ賍物ノ返還又ハ損害賠償ヲ請求スル訴ニアラサルコト明瞭ニシテ從テ泰次郎カ民事原告人ニアラサルコト言ヲ俟タサルヲ以テ原判決カ證人タル泰次郎ノ豫審訊問調書ヲ罪證ニ供シタルハ違法ニアラス論旨ハ理由ナシ
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事中川一介干與明治四十四年三月九日大審院第二刑事部
明治四十三年(レ)第二七三七号
明治四十四年三月九日宣告
◎判決要旨
- 一 欺罔手段を施し人をして不動産所有権の移転を承諾する意思表示を為さしめたるときは詐欺既遂罪を構成し、而して其登記又は引渡を完了するが如きは本罪の成立要件に属せず
右詐欺取財未遂被告事件に付、明治四十三年十一月七日大坂控訴院に於て言渡したる判決に対し被告は上告を為したり。
因で判決すること左の如し
理由
本件上告は之を棄却す
弁護人横山鉱太郎上告趣意書第一凡そ不動産騙取罪の既遂は其不動産の登記名義を被騙取者より移付せしめ乃ち其不動産に対する形式上の支配権を獲得するか或は被騙取者をして不動産に対する事実上の支配権を廃して之を他に移さしむるかの外あるべからず。
換言すれば形式上又は事実上不動産の支配権を獲得したる場合ならざるべからず。
原判決は本件は上告人が松尾泰次郎より稲沢秀松名義の依り不動産を騙取したる犯罪なりとし事実を認定して「被告源太郎は其親族稲沢吉松より同人所有に係る兵庫県加古郡高砂町字木曽乙五百三番の一畑二反九畝二十二歩の処分方を委託され居たる処同部母里村の内野谷新村松尾泰次郎が其所有の同県印南郡米田村の内島村大字末吉前六百九十番田一反一畝四歩外二十八筆反別合計二町二畝歩余を買却する旨聞知し(中略)。
而して其際源太郎は泰次郎嘉蔵に対し泰次郎所有の前記地所は稲沢秀松に於て一反歩に付き百六十四円五十銭の割合にて買取るべく秀松所有の畑地は高砂町三好文吉に一坪に付き二円四十銭にて売却の約定成立し居るも文吉は目下上坂不在に付き至急呼戻し代金を受取りて貴方に支払へく残金六百円余は仮に右両地所を交換したる旨の契約書を作成し銀主に一覧せしむれば直に借受け貴方に支払を為し得る故其通りに取計ひ呉れと云ひ、且、上坂中の文吉に電報を発したるが如く装ひ泰次郎を欺罔し同人をして右約定の下に前記所有地を秀松へ売渡したる旨の意思表示を為し次に翌十七日加古川町公証人山崎竹蔵役場に出頭の上泰次郎秀松間に右地所の交換契約成立したるに付ては同月二十五日迄に各自地所の引渡をなすべく之に違背したるものは違約者として金三百円を支払ふ旨の公正証書作成の手続をなさしめ予期の如く地所騙取の目的を遂け。
而して其後種種の口実を設け代金を支払はざりしため泰次郎は被告等の奸策を覚り右期日に地所の引渡をなさざりし処源太郎は進で泰次郎を違約者なりと主張し秀松に代りて前記公正証書に執行文を受け云云」と臼へり之によるときは右交換契約公正証書の作成に依りて本件地所の騙取を遂けたりとせられたるも此際其登記名義の移付を受けたりと云ふに在らず又其土地支配権の事実上の移転即ち所謂引渡は其公正証書作成の日にあらずして一週間余の以後たる二十五日たるべき約なりしのみならず該期日に至り泰次郎は遂に其引渡をなさざりし事実なりしこと実に右認定の如くにして上告人は稲沢秀松名義に依り本件土地に付、寸時も形式上又は事実上の支配権を取得したりと認め得べき点更に之なし。
然るに原判決は前掲の如く公正証書の作成と同時に騙取を遂けたるものなりとせられたるは不動産騙取に関する法律を誤解せる失当ありと謂はざるべからず。
又原判決は前記の如く公正証書の作成に依りて不動産の騙取を遂けたりとせられたるも右交換契約公正証書は当事者間に於て相通して為したる虚偽の意思表示なりとせられたること前示原判文中の「仮りに右両地所を交換したる旨の契約書を作成し云云」とあるに徴し明かなるにより当事者間に就き之を見るときは松尾泰次郎は仮契約に交換の目的たる不動産の権利移転を諾し稲沢秀松名義を以てせる上告人は又其仮装なることを告白して其権利の移転を受けたる事態たるに帰するを以て此間松尾泰次郎に付ては毫も権利移転に関し錯誤に陥り居たりと観念し得べき点なし。
故に如斯通謀的仮装の公正証書の作成に依り上告人が泰次郎を欺罔して不動産の所有権を移転せしめたりと謂ふ能はざること実に明白なり。
若し右の如き相通して為したる虚偽の交換契約に基き単に泰次郎の所有不動産上に仮装的の所有権を得たるに過ぎざる上告人が其当初の約に反し其契約を真実なりと主張したるが如き場合ありとせば茲に上告人は秀松のために仮装的に取得し居りし泰次郎所有の不動産の横領を企てたるものなりと見做なるべき状態に至るべしと雖も這は原判決の全く認めざる所に属す之を要するに通謀仮装の行為は当事者間に於ては飽くまで架空にして其れ自体に設権的効果を発生すべき謂れなしと断定せざるべからず。
叙上の如くなるを以て原判決は不動産の騙取を認めたる事実上の理由を完備せざる失当の裁判なりと信ずと云ふに在りて◎原判決を査するに事実認定の部に記載する所は洵に論旨に掲ぐるが如きものありと雖も詐欺の既遂罪を構成するに動産に在ては欺罔手段を施し人をして之を引渡さしむるを必要とすれども不動産に在ては然らず苟も欺罔手段を施し人をして之が所有権を移転することを承諾する意思表示を為さしむれば足る登記又は引渡を完了するが如きは其構成の要件にあらず。
是れ本院の判例として既に屡次判示する所なり。
今原判決の認むる事実に依れば被告は松尾泰次郎に欺罔手段を施し同人をして所有地を稲沢秀松に売渡すことを承諾する意思表示を為さしめたるものなれば、即ち同人をして不動産所有権の移転を承諾する意思表示を為さしめたるものにして右被告の行為は刑法第二百四十六条第一項に掲ぐる詐欺の既遂罪に該当す顧ふに原判決の事実判示に於て被告が泰次郎をして前記の如く地所売渡を承諾せしめたる旨を掲げ次に泰次郎をして仮装の地所交換契約に違約金支払の約款を附したる公正証書作成の手続を為さしめたることを掲げ然る後予期の如く騙取の目的を遂けたることを説示するは叙事明晰を欠く嫌なきにあらざるも熟熟其趣旨の在る所を討究するに被告が意思継続して違約金を騙取せんとしたる事実を叙述する前提と為さん為め公正証書作成に関する事項を掲げたるに過ぎずして不動産の騙取の時期は曩きに売渡を承諾せしめたる時に在ることを認めたるものと解釈するに難からず。
従て原判決が被告を不動産騙取の行為あるものと認め詐欺の既遂罪に問擬したるは正当にして原判決には所論の如き違法あることなく本論旨に於て原判決を批難する点は皆判旨に副はざる攻撃なれば上告の理由と為らず
第二原判決の事実認定に従ふ時は上告人は松尾泰次郎を欺罔して同人と稲沢秀松間に土地交換契約公正証書を作成し之に依て泰次郎所有の土地を秀松のために騙取し次に泰次郎が右公正証書の約旨に背き土地の引渡を為さざりしを以て是亦公正証書の約款たりし違約金三百円請求のため泰次郎所有の動産の差押を為したるも泰次郎の告訴する所となり騙取の目的を遂けざりしものなりと曰ひ前者は詐欺既遂後者は詐欺未遂の各犯罪なりとし刑法第五十五条に依る連続犯に擬せられたり。
然れども此所謂犯行なるものは孰れも一箇の公正証書に依る交換契約の履行と不履行との結果に依る作用の発現に該り而かも表見上二箇の別異なる態様を有するが如きも法律上に於ては之を包括的に観察して単一の犯罪行為なりと見做すを至当とす。
然るに原判決は之を連続犯なりと断し其法条を適用したるは違法にして擬律錯誤の裁判なりと云ふに在れども◎原判決を査するに其認むる事実に依れば被告は泰次郎を欺き交換又は売買名義の下に同人所有の地所を騙取せんと企図し先づ売買名義の下に該地所の騙取を遂け次に犯意を継続し泰次郎が前記地所に関する仮装の交換契約に対し恰も違約を為したるが如く詐り違約金三百円を騙取せんとして遂けざりしものなれば右二箇の行為は前者に在ては詐欺の既遂罪に後者に在ては其未遂罪に該当し。
即ち同一の罪名に触るるを以て刑法第五十五条に依り連続犯として一罪を構成すること疑を容れず本論旨に於て原判決を批難する点は判示に副はざる攻撃なれば上告の理由と為らず
第三原判決には証人松尾泰次郎予審訊問調書を理由に引用しあり一件記録に付き査閲するに同調書はに回に渉り第一回は明治四十二年十二月二十三日第二回は其翌二十四日にして其第二回調書の末尾に「(問)目下秀松より証人に対する強制執行は停止中なるや(答)今申立つる次第で余儀なく本年十月七八日頃保証金を三百円程積立てまして停止中てあります」との問答記載あり之れに依れば松尾泰次郎は上告人が秀松名義にて泰次郎に対し為したる本件違約金三百円の強制執行(原判決の所謂詐欺未遂の犯罪事実)に対し明治四十二年十月七八日頃原告として強制執行異議の訴を提起し同時に強制執行停止命令を得て其停止を為したるものにして而も上記証人としての第二回訊問の当時即ち明治四十二年十二月二十四日は其停止の継続中なりと云ふに依りて推すときは右執行異議の訴訟は泰次郎が証人として予審の訊問を受けたる第一回第二回の当時孰れも裁判所に繋属中なりしこと明からり然らば同人は正に刑事訴訟法第百二十三条第一号の民事原告人に該当するものと解せざるべからず。
従て同人は本件に付ては証人資格を欠けるものなるに拘はらず之を証人として訊問せられたるは違法にして其調書は総で無効なり。
故に原院が之を援用して断罪せられたるは採証を誤りたる失当の裁判なりと謂はざるべからずと云ふに在れども◎記録を査するに松尾泰次郎は本件違約金三百円の強制執行として同人の有体動産を差押へたるに対し異議の訴を提起したるものなれば右異議の訴自体に依り其犯罪を原因とし賍物の返還又は損害賠償を請求する訴にあらざること明瞭にして。
従て泰次郎が民事原告人にあらざること言を俟たざるを以て原判決が証人たる泰次郎の予審訊問調書を罪証に供したるは違法にあらず。
論旨は理由なし。
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す
検事中川一介干与明治四十四年三月九日大審院第二刑事部