明治四十二年(れ)第三三八號
明治四十二年四月十五日宣告
◎判決要旨
- 一 法律適用ニ關スル判文ト雖モ誤記アルコト明瞭ナル場合ニ在テハ之ヲ誤記ナリト認定スルヲ妨ケス(判旨第一點)
- 一 署名ハ書類ノ眞正ヲ擔保スル爲メニ之ヲ爲スモノナレハ常ニ必スシモ氏ト名トヲ自署スルコトヲ要セス(判旨第五點)
- 一 苟モ故意ヲ以テ他人ノ身體ニ暴行ヲ加ヘタル以上ハ傷害ヲ豫期スルト否トニ論ナク其結果ニ付キ責任ヲ負ハサルヘカラス(判旨第七點)
右毆打致死被告事件ニ付明治四十二年二月六日大阪控訴院ニ於テ言渡シタル判決ニ對シ被告ヨリ上告ヲ爲シタルニ因リ判決スルコト左ノ如シ
理由
本件上告ハ之ヲ棄却ス
辯護人高木益太郎上告趣意書第一點第一審判決法律適用ノ部ヲ査閲スルニ「(前畧)刑法施行法第三條ニ從ヒ同法第六十六條第七十一條第六十八條第三號ニ依リ其刑ヲ減シ云云」ト記載シ即チ減刑ニ對シ刑法施行法ヲ適用シタレトモ原判決ハ之ニ對シ同法トハ刑法ノ誤字ナリト認ムヘキヲ以テ控訴ヲ棄却スル旨判示セラレタリ抑モ判文上法律ノ適用ハ最モ嚴正ヲ要スルモノナレハ苟クモ此點ニ不法アリシ以上ハ其判決ニ對スル被告ノ控訴ハ理由アルニ付キ原判決ハ廢棄更正スヘキモノニシテ之ヲ維持スヘキモノニアラス然ルニ原院ハ前示ノ如ク判示セルハ法則違反ノ裁判ナリト云フニ在レトモ◎法律適用ニ關スル判文ト雖モ誤記ナルコト明瞭ナル場合ニ在テハ誤記ナリトノ認定ヲ許ササル謂ハレナシ故ニ原院カ「同法」ヲ「刑法」ノ誤字ナリト認メテ一審判決ヲ維持シタルハ相當ノ措置ニシテ不法ニアラス(判旨第一點)
第二點原判決書ヲ査閲スルニ本件犯罪事實ハ證人西村誠之ノ豫審調書ニ云云ノ供述記載アルヲ以テ之ヲ認ムルニ足ルト判示セルモ本件記録中斯ル氏名ノ證人アルコトナシ尤モ本件ノ豫審訊問調書中西村仙之助、田村誠之ナル證人アリト雖モ此等ハ唯氏又ハ名ノ一方ヲ同フスルノミニシテ判示ノ證人ハ果シテ其何レヲ指シタルヤ明確ナラサルモノナレハ之ヲ以テ單純ナル誤記トシテ看過スルヲ許ササルモノナリ然ラハ則チ原判決ハ虚無ノ證據ヲ斷罪ノ資料ニ供セルモノニシテ破毀ヲ免レスト思料スト云フニ在リ◎因テ原判決ヲ査スルニ醫師西村誠之ニ對スル豫審調書ニ云云ト記載シアルコトハ論旨ノ如クナルモ其供述トシテ掲クル所ハ醫師田村誠之ノ豫審調書ニ記載スル所ト同趣旨ナルノミナラス原判決ニ援用セル被告ノ豫審調書ノ記載中ニモ田村醫師トアリテ西村ハ田村ノ誤記ナルコト洵ニ明瞭ナレハ之ヲ論爭スルモ上告ノ理由ト爲スニ足ラス
第三點原院ハ證人西村誠之ノ豫審調書ヲ引用シテ本件犯罪事實ヲ認定スト雖モ假リニ之ヲ田村誠之ノ豫審調書ト解センカ原判決ハ無效ノ調書ヲ證據ニ採用セル違法アルモノナリ何トナレハ該調書ハ其作成書記ノ名下ニ二箇ノ相異ル印ヲ併捺シアルモノナレハ正當ナル捺印ノ形式ヲ具備セサルノ結果調書ニ書記ノ捺印ヲ缺クト同一ニ歸スレハナリ從テ原判決ハ到底破毀ヲ免レサル違法アリト云フニ在レトモ◎所論ノ豫審調書ヲ見ルニ裁判所書記高見穗三郎名下ニハ大阪地方裁判所書記印一箇ヲ押捺シアルノミナレハ本論旨ハ謂ハレナシ
第四點原院ハ「小松ウノ」ノ豫審調書ヲ本件犯罪事實認定ノ憑據ニ供スト雖モ該調書ハ資格審査ノ結果ヲモ得ス漫然參考人トシテ訊問シタルモノナレハ採證規定ニ違反セルモノニシテ無效ノ調書ナリト云ハサルヘカラス從テ之ヲ斷罪ノ資料ニ供セル原判決ハ破毀ノ原由アリト思料スト云フニ在レトモ◎我刑事訴訟手續ニ於テハ證人タル資格アル者ト雖モ必スシモ證人トシテ訊問ヲ爲ササル可カラサルモノニアラス故ニ參考人トシテ訊問ヲ爲ス場合ニ在テハ證人タル資格ノ有無ヲ審査スルノ要ナキヲ以テ本論旨モ亦理由ナシ
第五點法律上署名トハ氏及名ノ記載ノ義ナリ從テ署名ヲ要スル場合ニ右氏又ハ名ノ一方ヲ欠如スルトキハ適法ノ署名ト認ムヘキモノニアラス然ルニ原判決ニ於テハ右ノ如キ適式ノ署名ナキ無效ノ河井マサエノ豫審調書(記録第八三丁)ヲ斷罪ノ資料ニ供セルモノナレハ破毀ヲ免レスト思料スト云フニ在レトモ◎署名ハ其書類ノ眞正ヲ擔保スルカ爲メナルヲ以テ常ニ必スシモ氏ト名トヲ自署スルコトヲ要スルモノニアラス而シテ河井マサエノ豫審調書ニ同人ノ名ヲ自署シアル以上ハ同豫審調書ノ眞正ヲ擔保スルニ充分ナルヲ以テ其氏ノ自署ナキモ署名ニアラスト云フヲ得ス故ニ本論旨モ亦理由ナシ(判旨第五點)
第六點原判決ハ條理ヲ無視シ法則ヲ誤解シテ事實ヲ確定シタル違法アリト思料ス抑モ懲戒權ノ範圍如何ノ問題ハ固ヨリ一定ノ標準ナキニアラスト雖モ之ヲ箇箇ノ場合ニ適用スルニ當リテハ必スシモ一樣ニ解シ得ヘキモノニアラス能ク其地位事情ニ徴シテ斟酌セサルヘカラス而シテ本件被告カ性急ノ仕事家ナルコトハ證人小松ウノノ調書(原判決摘示)ニ徴シテ明カナル所又被害者長次郎カ當時寢床ノ上ニ便ヲ漏シタルノ事實竝ニ被告カ殊更ニ起キテ之ヲ便所ニ連レ行カントナシタルノ事實ハ原判決認定事實ニ徴シテ明確ナル所ナレハ此被告ノ地位竝ニ當時ノ事情ヨリ推斷セハ歩行ノ遲遲タル故ヲ以テ後方ヨリ押シタル被告ノ行爲ハ寧ロ懲戒權ノ行使ト認ムヘク決シテ毆打ノ所爲ト認ムヘカラサルナリ然ルニ原院ハ之レヲ毆打ト認定シタルハ法則ヲ誤解シタル違法アルモノナリ假リニ被告カ被害者ヲ後方ヨリ押シタルノ事實ヲ以テ毆打ナリトスルモ其死ハ被告ノ毆打ノ結果トシテ被告ニ歸責セシムヘキモノニアラスト考フ蓋シ犯罪者ニ歸セシムヘキ行爲ノ結果ハ行爲ヨリ生スル總テニ及フモノニアラス相當ノ程度ニ止ムヘキモノニシテ所爲自體ニ鑑ミ偶然ナル不期ノ結果ハ所謂行爲ノ結果ニアラサルコトハ刑法上ノ原則ナリ而シテ本件被告ノ所爲ハ歩行ノ遲遲タルカ爲メ後方ヨリ押シタル迄ニ過キスシテ偶々之カ爲メニ庭ニ墜落シ下駄ニ頭ヲ打チタル爲メ腦震盪症ヲ起シ遂ニ死亡シタルモノナルモ此死亡ハ被告ノ所爲ヨリセハ全ク偶然ナル不期ノ結果ニ外ナラス果シテ然ラハ原院カ之レヲ毆打致死ナリト認定シタル其認定自體カ違法ナリト云ハサルヘカラス之ヲ要スルニ前者ノ如ク解スレハ過失殺ト認ムルヲ相當トスヘク後者ノ如ク解スレハ單純毆打ニ外ナラサルモノナルニ原院ハ之ヲ毆打致死ト認定シタルモノナレハ到底破毀ヲ免レサル違法アリト思料スト云フニ在レトモ◎原判決ニハ被告ハ長三郎カ歩行ノ鈍キヲ怒リ同人ヲ座上ヨリ土間ニ突落シ強ク其頭部ヲ打チタル爲メ長三郎ハ腦震盪症ヲ起シ間モナク死亡シタル旨ヲ判示シアリテ其毆打ノ懲戒ノ爲メニアラサル事實及ヒ毆打ニ依リテ死ニ至ラシメタル事實ヲ認定シアレハ本論旨ハ原判旨ニ副ハス要スルニ原院ノ職權ニ屬スル事實認定ノ非難ニ外ナラスシテ上告適法ノ理由トナラス
第七點原審ハ新舊刑法比照上被告ノ所爲ハ刑法第二百五條ヲ適用處斷スヘキモノト判示シタリ然レトモ新刑法ノ規定ハ舊刑法ト其行文ヲ異ニセルヲ以テ舊刑法ノ毆打創傷罪ニ關スル解釋ノ如ク單ニ暴行ノ認識アルヲ以テ足リ其結果ニ因リテ生スヘキ身體ノ傷害ニ付テハ毫モ認識ヲ要セストナスヲ得ス刑法第二百五條ニハ「身體傷害ニ因リ」トアリ其前條ニハ「人ノ身體ヲ傷害シタルモノ」トアル以上ハ一般犯罪ニ關スル原則ニ依リ其身體傷害ハ被告ノ認識スル所ナラサルヘカラサルハ論ヲ俟タサル所ナルニ原審カ此點ニ關シ事實理由ノ部ニ何等説明スル所ナクシテ刑法第二百五條ヲ適用シタルハ理由不備ノ不法アルモノトイフヘク若シ然ラストスルモ尠クモ擬律錯誤ノ瑕瑾ハ之ヲ免ルヘカラサルモノト信スト云フニ在レトモ◎苟モ他人ノ身體ニ暴行ヲ加ヘタル以上ハ其結果ニ付責任ヲ負ハサル可カラサルハ事理ノ當然ナルカ故ニ傷害ヲ生セシムルノ意思ヲ以テ傷害罪ノ構成要素ト爲スカ如キハ立法ノ精神ニアラサルコト勿論ナルノミナラス刑法第二百四條同第二百五條同第二百八條等ノ法文ヲ對照セハ故意ニ暴行ヲ加ヘタル以上ハ傷害ヲ豫期スルト否トニ拘ハラス傷害ノ結果ヲ生シタルト否トニ因リ其制裁ヲ區別シタルモノナルコト自ラ明ナルヲ以テ本論旨モ亦理由ナシ(判旨第七點)
第八點原審下調調書ヲ査閲スルニ單ニ作成者立會書記ノ署名捺印アルノミニシテ之カ訊問ノ任ニ當リタル受命判事ノ署名捺印アルコトナシ之ヲ刑事訴訟法第二百三十七條ノ規定ニ徴スレハ單ニ「書記ハ本條ノ訊問ニ付特ニ調書ヲ作ルヘシ」トノミ規定シアリ受命判事ノ署名等ニ關シテハ何等言及スル所ナキカ故ニ毫モ違法ナキカ如ク貴院ノ判例モ之ヲ認メラルルト雖モ孰ラ刑事訴訟法ノ正條ヲ通覽スルニ豫審調書タルト公判始末書タルトヲ問ハス苟クモ其訊問ノ任ニ當リタルモノカ自ラ之ヲ作成セサル文書ニ付テハ必スヤ之カ當任判事ノ署名捺印スルコトヲ要スルハ刑事訴訟法第九十二條第九十五條第百三十一條第二百十條等ノ規定ニ照シ明白絲毫ノ疑ナシ而シテ此精神ハ假令文書ノ作成竝ニ署名ニ關シ全ク其規定ヲ缺如セル豫審判事ノ檢證調書豫審判事ノ鑑定人訊問調書公判ノ檢證調書刑事訴訟法第二百四十一條等ニ基ク公判ノ豫審判事所屬處分調書等ニ付テモ之ヲ擴張適用セラレ其作成ノ任ニ當リタル書記ノ外皆之ニ關與シタル豫審判事受命判事等ノ署名捺印ヲ要件トナササルコトナシ然ルニ獨リ刑事訴訟法第二百三十七條等ノ規定ニ基ク下調調書ニ付テノミ單ニ書記ノ署名捺印ノミヲ以テ足ルト論スルハ其論據ノ因テ基ク所ヲ知ル能ハサルナリ或ハ同條ニハ「書記ハ……特ニ調書ヲ作ルヘシ」トアルカ故ニ特別ニ書記ニ調書ヲ作成セシムルマテナルヲ以テ其訊問ノ任ニ當リタル受命判事ノ署名捺印ヲ要セスト解シ得ヘキカ如キモ尚同條ノ規定ヲ精思孰考スレハ其「特ニ」ト規定シタル所以ノモノハ同條ノ處分ハ公判ノ本手續前特ニ其訊問ヲ命シタル下調處分ナルカ故ニ本手續ト混同セシムルコトヲ避ケ從テ其調書ノ作成ニ付テモ之ヲ公判始末書中ニ混記セシメスシテ特ニ別箇ノ調書ヲ作成セシムルノ法意ニ出テタルモノナルコトヲ知リ得ヘシ果シテ然ラハ尚以テ其訊問調書ニ受命判事ノ署名捺印ヲ要スト解セサルヘカラサルノミナラス假ニ之等ノ條文ヲ度外スルモ如斯重要ナル手續ノ遵守ヲ證スヘキ調書ノ成立カ當任受命判事ノ意見ヲ見ルニ由ナキ立會書記一個ノ署名捺印ヲ以テ足ルト解スルハ其見解正鵠ヲ失スルコト言ヲ俟タサルナリ此所見ニシテ誤ナシトセハ原審下調調書ハ其作成重要ナル點ニ於テ違法アルヲ以テ其效力ナキモノト解セサルヲ得サルノ結果結局刑事訴訟法第二百三十七條ノ下調ヲ缺クノ不法アルニ歸スルヲ以テ原判決ハ破毀セラルヘキモノト信スト云フニ在レトモ◎刑事訴訟法第二百三十七條ニハ訊問判事ハ署名捺印ス可キ旨ノ規定ナキノミナラス供述者ニモ亦署名捺印セシム可キ旨ノ規定ナキニ依ルモ他ノ訊問調書ニ比シ其手續ヲ簡畧ニシタルモノナルコト自ラ明ナレハ當院從來ノ判例ハ相當ニシテ本論旨モ亦理由ナシ
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニ依リ主文ノ如ク判決ス
檢事矢野茂干與明治四十二年四月十五日大審院第二刑事部
明治四十二年(レ)第三三八号
明治四十二年四月十五日宣告
◎判決要旨
- 一 法律適用に関する判文と雖も誤記あること明瞭なる場合に在ては之を誤記なりと認定するを妨げず。
(判旨第一点)
- 一 署名は書類の真正を担保する為めに之を為すものなれば常に必ずしも氏と名とを自署することを要せず。
(判旨第五点)
- 一 苟も故意を以て他人の身体に暴行を加へたる以上は傷害を予期すると否とに論なく其結果に付き責任を負はざるべからず。
(判旨第七点)
右殴打致死被告事件に付、明治四十二年二月六日大坂控訴院に於て言渡したる判決に対し被告より上告を為したるに因り判決すること左の如し
理由
本件上告は之を棄却す
弁護人高木益太郎上告趣意書第一点第一審判決法律適用の部を査閲するに「(前略)刑法施行法第三条に従ひ同法第六十六条第七十一条第六十八条第三号に依り其刑を減じ云云」と記載し。
即ち減刑に対し刑法施行法を適用したれども原判決は之に対し同法とは刑法の誤字なりと認むべきを以て控訴を棄却する旨判示せられたり。
抑も判文上法律の適用は最も厳正を要するものなれば苟くも此点に不法ありし以上は其判決に対する被告の控訴は理由あるに付き原判決は廃棄更正すべきものにして之を維持すべきものにあらず。
然るに原院は前示の如く判示せるは法則違反の裁判なりと云ふに在れども◎法律適用に関する判文と雖も誤記なること明瞭なる場合に在ては誤記なりとの認定を許さざる謂はれなし故に原院が「同法」を「刑法」の誤字なりと認めて一審判決を維持したるは相当の措置にして不法にあらず。
(判旨第一点)
第二点原判決書を査閲するに本件犯罪事実は証人西村誠之の予審調書に云云の供述記載あるを以て之を認むるに足ると判示せるも本件記録中斯る氏名の証人あることなし尤も本件の予審訊問調書中西村仙之助、田村誠之なる証人ありと雖も此等は唯氏又は名の一方を同ふするのみにして判示の証人は果して其何れを指したるや明確ならざるものなれば之を以て単純なる誤記として看過するを許さざるものなり。
然らば則ち原判決は虚無の証拠を断罪の資料に供せるものにして破毀を免れずと思料すと云ふに在り◎因で原判決を査するに医師西村誠之に対する予審調書に云云と記載しあることは論旨の如くなるも其供述として掲ぐる所は医師田村誠之の予審調書に記載する所と同趣旨なるのみならず原判決に援用せる被告の予審調書の記載中にも田村医師とありて西村は田村の誤記なること洵に明瞭なれば之を論争するも上告の理由と為すに足らず
第三点原院は証人西村誠之の予審調書を引用して本件犯罪事実を認定すと雖も仮りに之を田村誠之の予審調書と解せんか原判決は無効の調書を証拠に採用せる違法あるものなり。
何となれば該調書は其作成書記の名下に二箇の相異る印を併捺しあるものなれば正当なる捺印の形式を具備せざるの結果調書に書記の捺印を欠くと同一に帰すればなり。
従て原判決は到底破毀を免れざる違法ありと云ふに在れども◎所論の予審調書を見るに裁判所書記高見穂三郎名下には大坂地方裁判所書記印一箇を押捺しあるのみなれば本論旨は謂はれなし
第四点原院は「小松うの」の予審調書を本件犯罪事実認定の憑拠に供すと雖も該調書は資格審査の結果をも得ず漫然参考人として訊問したるものなれば採証規定に違反せるものにして無効の調書なりと云はざるべからず。
従て之を断罪の資料に供せる原判決は破毀の原由ありと思料すと云ふに在れども◎我刑事訴訟手続に於ては証人たる資格ある者と雖も必ずしも証人として訊問を為さざる可からざるものにあらず。
故に参考人として訊問を為す場合に在ては証人たる資格の有無を審査するの要なきを以て本論旨も亦理由なし。
第五点法律上署名とは氏及名の記載の義なり。
従て署名を要する場合に右氏又は名の一方を欠如するときは適法の署名と認むべきものにあらず。
然るに原判決に於ては右の如き適式の署名なき無効の川井まさえの予審調書(記録第八三丁)を断罪の資料に供せるものなれば破毀を免れずと思料すと云ふに在れども◎署名は其書類の真正を担保するか為めなるを以て常に必ずしも氏と名とを自署することを要するものにあらず。
而して川井まさえの予審調書に同人の名を自署しある以上は同予審調書の真正を担保するに充分なるを以て其氏の自署なきも署名にあらずと云ふを得ず。
故に本論旨も亦理由なし。
(判旨第五点)
第六点原判決は条理を無視し法則を誤解して事実を確定したる違法ありと思料す。
抑も懲戒権の範囲如何の問題は固より一定の標準なきにあらずと雖も之を箇箇の場合に適用するに当りては必ずしも一様に解し得べきものにあらず。
能く其地位事情に徴して斟酌せざるべからず。
而して本件被告が性急の仕事家なることは証人小松うのの調書(原判決摘示)に徴して明かなる所又被害者長次郎が当時寝床の上に便を漏したるの事実並に被告が殊更に起きて之を便所に連れ行かんとなしたるの事実は原判決認定事実に徴して明確なる所なれば此被告の地位並に当時の事情より推断せば歩行の遅遅たる故を以て後方より押したる被告の行為は寧ろ懲戒権の行使と認むべく決して殴打の所為と認むべからざるなり。
然るに原院は之れを殴打と認定したるは法則を誤解したる違法あるものなり。
仮りに被告が被害者を後方より押したるの事実を以て殴打なりとするも其死は被告の殴打の結果として被告に帰責せしむべきものにあらずと考ふ蓋し犯罪者に帰せしむべき行為の結果は行為より生ずる総てに及ぶものにあらず。
相当の程度に止むべきものにして所為自体に鑑み偶然なる不期の結果は所謂行為の結果にあらざることは刑法上の原則なり。
而して本件被告の所為は歩行の遅遅たるか為め後方より押したる迄に過ぎずして偶偶之が為めに庭に墜落し下駄に頭を打ちたる為め脳震盪症を起し遂に死亡したるものなるも此死亡は被告の所為よりせば全く偶然なる不期の結果に外ならず果して然らば原院が之れを殴打致死なりと認定したる其認定自体が違法なりと云はざるべからず。
之を要するに前者の如く解すれば過失殺と認むるを相当とすべく後者の如く解すれば単純殴打に外ならざるものなるに原院は之を殴打致死と認定したるものなれば到底破毀を免れざる違法ありと思料すと云ふに在れども◎原判決には被告は長三郎が歩行の鈍きを怒り同人を座上より土間に突落し強く其頭部を打ちたる為め長三郎は脳震盪症を起し間もなく死亡したる旨を判示しありて其殴打の懲戒の為めにあらざる事実及び殴打に依りて死に至らしめたる事実を認定しあれば本論旨は原判旨に副はず要するに原院の職権に属する事実認定の非難に外ならずして上告適法の理由とならず
第七点原審は新旧刑法比照上被告の所為は刑法第二百五条を適用処断すべきものと判示したり。
然れども新刑法の規定は旧刑法と其行文を異にせるを以て旧刑法の殴打創傷罪に関する解釈の如く単に暴行の認識あるを以て足り其結果に因りて生ずべき身体の傷害に付ては毫も認識を要せずとなすを得ず。
刑法第二百五条には「身体傷害に因り」とあり其前条には「人の身体を傷害したるもの」とある以上は一般犯罪に関する原則に依り其身体傷害は被告の認識する所ならざるべからざるは論を俟たざる所なるに原審が此点に関し事実理由の部に何等説明する所なくして刑法第二百五条を適用したるは理由不備の不法あるものといふべく若し然らずとするも尠くも擬律錯誤の瑕瑾は之を免るべからざるものと信ずと云ふに在れども◎苟も他人の身体に暴行を加へたる以上は其結果に付、責任を負はざる可からざるは事理の当然なるが故に傷害を生ぜしむるの意思を以て傷害罪の構成要素と為すが如きは立法の精神にあらざること勿論なるのみならず刑法第二百四条同第二百五条同第二百八条等の法文を対照せば故意に暴行を加へたる以上は傷害を予期すると否とに拘はらず傷害の結果を生じたると否とに因り其制裁を区別したるものなること自ら明なるを以て本論旨も亦理由なし。
(判旨第七点)
第八点原審下調調書を査閲するに単に作成者立会書記の署名捺印あるのみにして之が訊問の任に当りたる受命判事の署名捺印あることなし之を刑事訴訟法第二百三十七条の規定に徴すれば単に「書記は本条の訊問に付、特に調書を作るべし」とのみ規定しあり受命判事の署名等に関しては何等言及する所なきが故に毫も違法なきが如く貴院の判例も之を認めらるると雖も孰ら刑事訴訟法の正条を通覧するに予審調書たると公判始末書たるとを問はず苟くも其訊問の任に当りたるものが自ら之を作成せざる文書に付ては必ずや之が当任判事の署名捺印することを要するは刑事訴訟法第九十二条第九十五条第百三十一条第二百十条等の規定に照し明白糸毫の疑なし。
而して此精神は仮令文書の作成並に署名に関し全く其規定を欠如せる予審判事の検証調書予審判事の鑑定人訊問調書公判の検証調書刑事訴訟法第二百四十一条等に基く公判の予審判事所属処分調書等に付ても之を拡張適用せられ其作成の任に当りたる書記の外皆之に関与したる予審判事受命判事等の署名捺印を要件となさざることなし然るに独り刑事訴訟法第二百三十七条等の規定に基く下調調書に付てのみ単に書記の署名捺印のみを以て足ると論するは其論拠の因で基く所を知る能はざるなり。
或は同条には「書記は……特に調書を作るべし」とあるが故に特別に書記に調書を作成せしむるまでなるを以て其訊問の任に当りたる受命判事の署名捺印を要せずと解し得べきが如きも尚同条の規定を精思孰考すれば其「特に」と規定したる所以のものは同条の処分は公判の本手続前特に其訊問を命じたる下調処分なるが故に本手続と混同せしむることを避け。
従て其調書の作成に付ても之を公判始末書中に混記せしめずして特に別箇の調書を作成せしむるの法意に出でたるものなることを知り得べし果して然らば尚以て其訊問調書に受命判事の署名捺印を要すと解せざるべからざるのみならず仮に之等の条文を度外するも如斯重要なる手続の遵守を証すべき調書の成立が当任受命判事の意見を見るに由なき立会書記一個の署名捺印を以て足ると解するは其見解正鵠を失すること言を俟たざるなり。
此所見にして誤なしとせば原審下調調書は其作成重要なる点に於て違法あるを以て其効力なきものと解せざるを得ざるの結果結局刑事訴訟法第二百三十七条の下調を欠くの不法あるに帰するを以て原判決は破毀せらるべきものと信ずと云ふに在れども◎刑事訴訟法第二百三十七条には訊問判事は署名捺印す可き旨の規定なきのみならず供述者にも亦署名捺印せしむ可き旨の規定なきに依るも他の訊問調書に比し其手続を簡略にしたるものなること自ら明なれば当院従来の判例は相当にして本論旨も亦理由なし。
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り主文の如く判決す
検事矢野茂干与明治四十二年四月十五日大審院第二刑事部