詐欺取財未遂及誣告ノ件

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大審院刑事判決録（刑録）14輯653頁

上告趣意書は（一）被告は神田佐吉に対し事実の不実を申告して司法を誤まらしむる恐れある原因を与ふる所為を自覚して詐欺取財の告訴を提起し当該官に其犯罪の憑拠の検挙を企てんと徒為の事務の端を啓かんとせしにあらず。 実に被告人は父田中嘉藤治の倒産に接して独立経営して活路の曙光を欲して印度藍を販売せんとして神田佐吉と取引を開始せしものにして、即ち明治三十六年十一月四日被告人所有の地所を根抵当とし其出荷を約束せしに神田佐吉は被告人に対し出荷せず約束手形の支払期日に不払を云為し根抵当の第一番抵当権者の競売を開始せしに参加し競落代金の配当を受領せしを以て被告人は荷受なさずして現金に代る約束手形の額面金員のみ領収せられたるは商業道徳にも背き且つ神田佐吉とは商業取引関係あるのみならず親族の縁故もあり其態度甚酷なるより憤激して告訴を為せしものなり。 故に被告人自覚は不実の事項を申告する悪性は存せざるなり。 唯其憤激の狂態より告訴せしものにして静的心理より判断せば或は事実の錯覚は免れざるべしと雖[いえども]も誣告[ぶこく]罪成立するに法律の要求する主観的不実の自覚はあらざるを以て本罪の成立は阻却する価値ありと云はざるを得ず。 然るに本案に対する予審調書第一審第二審公判を通じて判断の資料として開示せらるる事項は被告人と被告父嘉藤治と神田佐吉の関係を混同せられ嘉藤治の神田佐吉に対する債務を被告人が継承し約束手形に更新し当該手形の担保として被告人所有不動産を根抵当とし設定登記を為したるものと解釈を与へられ被告人と父嘉藤治を一体に看取せられたるは事実の真相を闡明せられざるものにして刑法上罪科を付与せられざるものに其否らざるに接到したるは法術の不適用と云はざるを得ずと云ひ」（二）原判決の判示事項は予審決定の其写にして被告人の覆審要求は毫も[ごうも]其効を生ぜざりき理由に被告は神田佐吉の要求に依り明治三十六年八月十五日其父嘉藤治が神田佐吉より買受けたる洋藍代金支払に替へ佐吉に交付し置きたる金四百円の約束手形を被告名義に書替且つ同年十月二十七日嘉藤治が佐吉より買受けたる洋藍代金支払に換へ被告より佐吉に約束手形を振り出し其担保として五百円を限度とし根抵当名義を以て抵当を設定することとし明治三十六年十一月四日佐吉に宛で金百円二通二百円一通の約束手形及金百六十円の手形を振出し同時に被告所有の愛知県海西郡立田村大字立田字鍋田四百九十五番の一田一反九畝四歩外二筆を金三百円の抵当に同所四百八十六番の二田一反三畝歩外二筆を二百円の抵当に入れ其手続を経たるに拘はらず云云とあり。 然るに被告は父嘉藤治の神田佐吉に対する債務四百円を引受けたる所謂債務の更改を承認せざるのみならず父嘉藤治に於ても其更改を提唱したることあらざるのみならず毫も[ごうも]干与せざることは嘉藤治の予審調書の録事に於て明確なり。 而して[しこうして]判示の事項は甚た前後了解に苦むものにして被告健太郎が父嘉藤治の債務四百円を自分に更改し負担せしものの如く表示し。 即ち明治三十六年十月二十七日嘉藤治が佐吉より買受けたる洋藍代金支払に代へ被告が約束手形を振出し神田佐吉に交付しと認定を与へたるは被告が神田佐吉に対し父嘉藤治の債務を負担せりとの趣意を言明せしに外ならず果して然らば其次項に明治三十六年十一月四日佐吉に宛で金額百円二通二百円一通の約束手形を振出し五百円を限度とし云云とあるは被告健太郎が父嘉藤治の債務更改の担保とし設定せしものと認定せしにある乎凡そ根抵当の性質は将来発生の債権を担保するものにして既に確定債権の為めに法律は要求せざるものなり。 原判決は事案に対する看念は法律的常識を逸せり何となれば更改債務の根抵当を設定し五百円を限度としてと数十字を羅致せられたるも毫も[ごうも]領得するを得ざるなり。 究竟判示の斯く統一せざるは被告の取引と父嘉藤治の取引を一体視せられたるに基因するにあり被告は父嘉藤治の債務を継承せず単独に取引を開始するに方り五百円を限度として自己所有不動産を根抵当として設定したるも神田佐吉が売買商品を出荷せずして代金を取得したるにあり。 故に被告は詐欺行為と思料し告訴を為したるものにして決して不実の自覚より出でたるものにあらず。 従て誣告[ぶこく]を構成せざるのみならず無原因に取得せられたる金員の返還を請求せしものにして欺罔手段を以て騙取[へんしゅ]せんとする悪性に基きたるものにあらず。 誠意損害を回復せんとの慾求に外ならず。 然るに詐欺取財及び誣告[ぶこく]の事実ありとする当該事案は事実認定の錯誤と信じ上告の趣意を叙する所以なりと云ふ[いう]に在れども◎原判決の事実理由には何等不法あることなく右論旨は孰れ[いずれ]も原院の専権に属する事実の認定を非難するに外ならざるを以て上告の理由とならず

弁護人高木益太郎沢田薫上告弁明書は一、記録を査閲するに本件第一審判決は詐欺取財罪の未遂犯を構成する所以の事実理由を判示せず。 而して[しこうして]原公廷に於て立会検事は此点に関する第一審判決の不法を指摘し原裁判所亦[また]此失当を認め其判決の事実理由に於て第一審判決の掲げざりし被告が名古屋地方裁判所検事より本件の訴追を受け為めに騙取[へんしゅ]の目的を遂けざりし事実を附加せられ以て第一審判決の失当を是正せられたり。 然らば則ち原審に於ては此不法なる第一審判決を取消し更に判決を為すべき筋合なるに其措置茲に[ここに]出でず被告の控訴を理由なしとして棄却せられたるは失当なりと云ふ[いう]に在り◎依て按ず[あんず]るに第一審判決は被告が神田佐吉に対し詐欺取財を遂行する手段として訴訟を提起し、且、同人を誣告[ぶこく]したる事実を叙したるに止まり其詐欺取財の目的を達したるや否やに付ては何等判示する所なく右犯罪の既遂なるや未遂なるやを知るに由なき理由不備の裁判たるを免れずされば原院に於ては此点に付、刑事訴訟法第二百六十一条第二項に依り第一審判決を取消し更に相当の判決を為さざるべからざるは勿論なるに同条第一項に依り控訴を棄却したるは擬律錯誤にして本論旨は理由あり

二、原判決証拠説明の部に「押収の証第十八号第十九号第二十号第十号に各判示に符合する記載あること」と説示せらるるも此等の押収物件は本件記録に添附せられず原院は之れが送付を為さざるを以て事実果して原判示に符合する記載あるや否やを確むるに由なく畢竟[ひっきょう]原判決の証拠理由は記録上及調査上の根拠を欠くものにして原判決は破毀を免れざるものとすと云ふ[いう]に在れども◎証拠を調査判断して其趣旨を判決に摘示するは原院の職務に属するを以て苟くも其手続を履行したる以上は適法、且、誠実に之を履行したるものと推定せざるべからず。 故に原院が採用したる証拠物件を記録に添へ本院に送付せざりしの故を以て直ちに虚無又は不法の証拠に基きて判決を為したるものと断定することを得ざるは勿論にして本論旨は上告の理由なし。

右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十六条第二百八十七条に依り原判決の全部を破毀し直ちに判決を為すこと左の如し

右

田中健太郎

原院の認定事実に基き法律に照すに詐欺取財未遂の所為は刑法第三百九十条第一項第三百九十七条第百十二条に当り既遂の刑に一等を減ずべく誣告[ぶこく]の所為は同法第三百五十五条第二百二十条第二号に当り二罪倶発するを以て同法第百条に依り重き誣告[ぶこく]の所為に従ひ処断し公訴裁判費用は同法第四十五条刑事訴訟法第二百一条第一項に依り押収物件は同法第二百二条に依り各処分すべきものとす。 依て

被告健太郎を重禁錮十月罰金八円に処す

公訴裁判費用は全部被告の負担とす。

押収物件は差出人に還付す

検事鈴木宗言干与明治四十一年六月十六日大審院第一刑事部