官吏侮辱ノ件

平易表示にする 原文表示にする

大審院刑事判決録（刑録）12輯760頁

上告趣意書は原審は其判文に於て「上長官たる同支庁長に対し事実の報告及び意見の陳述を為し。 即ち職務の執行中云云」と判示し被告が竹内直治の職務に対し侮辱したる事実を認定せられたるも其証拠として採用せられたる証人竹内直治予審第一回調書に依れば「私が故意に遅滞せしめたるかの如く聞取し故左様な訳てない云云然るに突飛的出願者が有た為め蒼惶出願したと思ふと云ふ[いう]や否や助川は云云」とありて支庁長と竹内属との対談終りたる後ち助川の意見に対し竹内属が同人に突飛的云云と云ひたるにて支庁長と竹内との対談中に非らざること明かなり。 然るに原審が竹内が支庁長に対し意見の陳述中侮辱したるものと判定せられたるは全く事実の認定と証拠の明示と相副はざる不当の判決にして結局証拠の明示を欠く不法の判決と思料すと云ふ[いう]に在れども◎原院は論旨に援用する竹内直治第一回予審調書の部分のみに依りて本件事実を認定したるに非らず同人の他の供述其他原判決に列挙の各証拠を綜合[そうごう]して本件事実を認定したるものなれば本論旨は原院の職権に属する証拠判断の非難に外ならざるを以て適法の上告理由とならず

弁護人宮古啓三郎菅原亥之助上告趣意拡張弁明書は第一点本件に於ける予審請求書を閲するに官吏侮辱被告人助川貞次郎右頭書の事件は吉田辰蔵告発書記載の事実なりと思料するに付、証憑[しょうひょう]書類相添求予審候也とあり之に由で観れば被告に対しては官吏侮辱罪のみに付き起訴となりしものにして殴打の点に付ては起訴なきこと明かなり。 然るに原院が官吏侮辱の外殴打の点に付ても有罪の判決を下したるは違法なりと云ふ[いう]に在れども◎予審請求書には告発書に記載したる事実に付き予審を求むる旨記載しあり。 而して[しこうして]右告発書には殴打の事実を明記しあるを以て右事実に付き適法の公訴ありたるものとす。 従て原院が殴打の点に付き判決を与へたるは相当なりとす。

第二点は本件に付、第一審に於ては「被告は直ちに突飛とは何そ此野郎生意気な奴たと軽侮の言を発し加之[しかのみならず]寄りたる椅子を離れ拳を以て直治の頭部を打撲し以て官吏の職務に対し目前に於て言語及形容を以て侮辱を加へ且つ直治の身体に対して創傷疾病に至らざる殴打を為したるものなり。」と判決しあり。 而して[しこうして]原院に於ては「被告は直治に対し此野郎生意気の奴たと罵り直治が北海道庁属として上長官たる同支庁長に対し事実の報告及び意見の陳述を為し。 即ち職務執行中其目前に於て之を侮辱し且つ支庁長の制するにも拘はらず被告は其寄り居たる椅子を離れ拳にて直治の右頭部を殴打したるも直治は創傷疾病に至らざりしものとす。」と判決したり。 即ち第一審に於ては言語及び形容を以て侮辱したるものとし原院に於ては単に言語を以て侮辱したるものとし形容を以て侮辱したるものと為さざるものなり。

然らば原院は第一審に於て形容を以て侮辱したりとせる点は之を是認せざるものなり。 然る以上は原院に於ては此点に付き第一審判決の不当なる理由を説明し第一審判決を取消さざるべからざる筈なるに原院が此の点に付き何等理由の説明も与へず又此の点を以て第一審判決を取消さざるは違法なりと云ふ[いう]に在れども◎原院は被告に監視規則違犯罪の前科あるに之を認定せざりしを不法として第一審判決を取消したるものにして右の如く第一審判決を取消すべき一の理由を明示したる以上は第一審判決に存する凡て[すべて]の瑕瑾を指摘するの要なきものなるを以て本論旨は理由なし。

第三点は原判決に依れば北海道庁空知支庁長が其事務室へ竹内直治なる者を呼ひ被告と三人のみ居たる所即ち何人も自由に出入し得ざる室内に於て被告が竹内に対し言語を以て侮辱したりとせるものなり。 然れども[しかれども]。 抑も官吏侮辱罪なるものは人の栄誉威厳を傷害する罪にして公然侮辱するを要するものなり。 （ぼあそなーど氏刑法草案理由書）されば原院の認むる支庁長室内に於て単に支庁長のみ居る所に於ては之を公然と云ふ[いう]べからず。 然るに原院が被告に対して官吏侮辱罪に処したるは違法なりと云ふ[いう]に在れども◎官吏侮辱罪は刊行の文書図画又は公然の演説を以てずる場合にあらずして官吏の目前に於て之を侮辱する場合に於ては公然之を為すことを犯罪成立の要素となすものにあらざること刑法第百四十一条第一項の文詞に照し明瞭なり。 蓋し[けだし]公然にあらずと雖[いえども]も官吏の職務に対し其目前に於て侮辱を為すの事は既に其威厳を毀損[きそん]するものなればなり。 況んや原判決の認定事実に依れば本件の侮辱は北海道庁空知支庁長の面前に於て北海道庁属竹内直治に対して之を加へたるものにして第三者の面前に於て為したるものなるが故に公然の侮辱と云ふ[いう]を得べきものなるに於ておや何れの点より観るも被告人の所為は官吏侮辱罪を構成すること明白なるを以て本論旨は理由なし。

第四点は原院の認めたる事実に依るも被告は竹内直治の被告に対する侮蔑の言語を聴き憤怒の余り竹内を殴打し其殴打を為す掛声として激語を発するに過ぎずして官吏なる竹内を侮辱するの意思なかりしこと明かなり。 然るにも拘はらず原院が被告に対し官吏侮辱罪を以て問擬したるは違法なりと云ふ[いう]に在れども◎本論旨は原院の職権に属する事実認定の非難なるを以て適法の上告理由とならず

弁護人花井卓蔵上告趣意拡張書第一点は目前に非らざる官吏侮辱罪は其手段を制限したること刑法第百四十一条第二項の規定に徴して之を知ることを得べしと雖[いえども]も目前に於ける官吏侮辱罪は其手段方法を限定することなく或は言語を以てし或は形容を以てし或は言語形容の二方法を以てずるも一箇の犯罪を構成するに止まり数多の手段方法を用ひたるか為め数箇の犯罪を構成することなし原判決は「被告は云云直治に対し此野郎生意気な奴たと罵り直治が北海道庁属として上長官たる同支庁長に対し事実の報告及意見の陳述を為し。 即ち其職務執行中其目前に於て之を侮辱し且つ支庁長の制するにも拘はらず被告は其寄り居たる椅子を離れ拳を以て直治の左頭部を殴打したるも直治は創傷疾病に至らざりしものとす。」と判示せり此認定事実に依れば被告は罵詈と殴打換言すれば言語と形容の二方法を以て竹内直治を侮辱したるものとす。 果して然らば被告は官吏侮辱の手段として二箇の方法を用ひたるのみ為めに各手段各別に一罪を構成すべきものにあらず。 若し之に反するものとせば官吏侮辱の手段として言語を発することなく単に疾病創傷に至らざる殴打を加へたるに止まる場合には官吏侮辱罪を構成することなく僅かに遠警罪として処分するに過ぎざるの不権衡[けんこう]を来すべし。 然るに前示認定事実に対し二罪を構成するものとして刑法第百四十一条第一項並に同法第四百二十五条第九に問擬したる原判決は擬律錯誤の不法あるものと信ずと云ふ[いう]に在り◎依て按ず[あんず]るに殴打に依りて侵害せらるる法益は個人の身体にして侮辱に依て侵害せらるる法益は官吏の職務上の威厳なり。 而して[しこうして]官吏を侮辱するに当りて被告人の為したる動作が其一面に於て侮辱罪構成の手段となり他の一面に於て殴打罪を構成する場合に於ては法律が特に之を包括して重き一罪を以て論すべきことを命ずる場合例へば刑法第百四十条の如き規定の存する場合にあらざる以上は其侵害する法益の数に従ひ数罪として論せざるべからず。 原院の確定したる事実は要するに明治三十八年十二月四日被告は北海道庁空知支庁長村津寛を石狩川堤防敷地使用出願の件に付き其事務室に訪ひ出願許否に関し談する所あり支庁長は同道庁属竹内直治を其席に招き処分進行の模様に付き尋問したるに直治の答ふる所被告の意に満たざりしより怒を発し「此野郎生意気な奴た」と罵り直治が北海道庁属として上長官に事実の報告及び意見の陳述を為す職務の執行中其目前に於て之を侮辱し且つ支庁長の制するにも拘はらず被告は拳にて直治の左頭部を殴打したりと云ふ[いう]に在れば被告の詈言及び殴打は共に北海道庁属竹内直治を侮辱するの手段として用ひられたる事実を確定したるものと云はざるべからず。 官吏を侮辱するに当り単に之を殴打せんとする姿勢を示すが如きは刑法第百四十一条に所謂侮辱の手段たる形容を為したるに止まるものなれども更に進んで現実の殴打を加ふるに至りては其動作には侮辱罪の手段たる形容と殴打罪構成の要素たる暴行を包含し其結果として二箇の法益を侵害したるを以て被告の所為は二罪を構成するものと云はざるべからず。 故に本件の所為を以て単に一罪を構成するものに過ぎずと云ふ[いう]の論旨は採用する能はずと雖[いえども]も原判決は本件の殴打を以て官吏侮辱罪の手段より除外し単に刑法第四百二十五条第九号の罪のみを構成するものと為したるは擬律の錯誤たるを免れざるを以て結局本論旨は理由あるものとす。 （判旨第六点）

第二点は前科の有無は刑の加減を有するが故に第一審に於て認めざる前科を認むる第二審判決は原判決を被告の不利益に変更したるものとす。 然るに被告人のみの控訴に係る本案に付き第一審に於て認定せざる監視規則違犯罪の前科を認めたる原判決は刑事訴訟法第二百六十五条に背戻する不法あるものと信ずと云ふ[いう]に在れども◎刑事訴訟法第二百六十五条に所謂不利益の変更とは判決主文を被告人の不利益に変更するを云ふ[いう]ものにして第二審判決及第一審判決を対照するに毫も[ごうも]其主文を被告人の不利益に変更したることなきを以て原院が第一審判決の認めざりし監視違犯の前科を認めたるも同条に違反するものにあらず。

第三点は地方裁判所の公判に於ては被告人の自白ある場合と雖[いえども]も証憑[しょうひょう]を取調へざるべからざるは刑事訴訟法第二百十九条の反面の解釈として当然湧出すべき問題なり。 而して[しこうして]前科の有無は刑の加減に至大の関係を有するが故に前科を認定するに当りては被告人の自白ありたる場合と雖[いえども]も尚ほ他の証憑[しょうひょう]を取調へ且つ判決に之を挙示せざるべからず。 然るに原判決は被告の前科を認定するに当り単に「被告が当公廷に於ける前記の如く二回軽罪刑に処せられたる旨の供述」と記載するに止まり他の証拠を取調へたることなく又之を明示せざるは理由不備若くは法則に背戻する不法あるものと信ずと云ふ[いう]に在れども◎刑事訴訟法第二百三十九条の規定は其文詞上明瞭なる如く被告人が公訴の原因となれる犯罪事実を自白したる場合と雖[いえども]も尚ほ証憑[しょうひょう]を取調へざるべからざることを命じたるに止まり前科其他の事実に関し既に被告人の自白するに拘はらず猶他の証憑[しょうひょう]を取調ふることを命ずるの精神にあらず。 新に起訴されたる犯罪事実と雖[いえども]も区裁判所の管轄に属する事件に於ては被告人の自白のみを以て之を認定することを得るものなり。 況んや前科調書に記載する如く既に確定判決を経で明確となれる犯罪事実及び之に対する科刑事実に於ておや被告人の自白あるに拘はらず裁判所は猶他の証憑[しょうひょう]を取調ふるの義務あるものにあらざるや明かなれば原院が被告人の自白のみに依りて其前科を認定し他の証憑[しょうひょう]を取調へず又判文に他の証憑[しょうひょう]を挙示せざりしは相当にして本論旨は理由なし。 （判旨第八点）

花井弁護士の第一論旨の下に於て説明したる如く原判決には擬律錯誤の不法あるを以て刑事訴訟法第二百八十七条に依り之を破毀し更に判決すべく。 而して[しこうして]同条に依り原院の認めたる事実を法律に照すに被告人が言語及殴打の形容を以て北海道庁属竹内直治の職務に対し侮辱を加へたる所為は刑法第百四十一条第一項に該り軽罪三犯に係るを以て同法第九十八条第九十二条に依り本刑に一等を加へ又竹内直治を殴打したる所為は刑法第四百二十五条第九号に該当し二罪倶発したるに依り刑法第百一条後段に従ひ重き侮辱罪を以て論すべく公訴裁判費用は其全部を被告人に負担せしむべく又押収物件は没収に係らざるものなるを以て之を差出人に還付すべきものとす。 依て判決する左の如し

原判決を破毀し被告助川貞二郎を重禁錮二月に処し罰金三十円を附加す

公訴裁判費用は全部被告の負担とす。

押収物件は差出人に還付す

検事小宮三保松干与明治三十九年六月二十八日大審院第二刑事部