明治三十七年(れ)第九三三號
明治三十七年六月三日宣告
◎判决要旨
- 一 刑法第三百五十六條ハ自首ノ一般條件ニ對シ推問前ナルコトヲ要スル特別條件ヲ加ヘテ刑罰ノ全免ヲ定メタルモノニ過キサレハ同條ノ規定ニ依ル自首モ亦事ノ發覺前ニ爲スコトヲ要ス
(參照)誣告ヲ爲スト雖モ被告人ノ推問ヲ始メサル前ニ於テ誣告者自首シタル時ハ本刑ヲ免ス(刑法第三百$五十六條)
右誣告事件ニ付明治三十七年四月七日大阪控訴院ニ於テ言渡シタル判决ヲ不法トシ被告ハ上告ヲ爲シタリ依テ刑事訴訟法第二百八十三條ノ定式ヲ履行シ判决スルコト左ノ如シ
被告ノ上告趣意第一點ハ被告人ハ辯護士須田哲ニ木下八兵衛ニ對スル告訴事件ヲ委任シ哲ハ明治三十六年十月十九日私印盜用私書僞造行使事件ノ告訴ヲ爲シタルコトハ事實ナルモ本件記録中ニアル告訴取下願ト題スル書面ニ明ナル如ク被告人ハ誣告事件發覺ニ先チ即チ同年十一月四日該告訴ハ眞實ト相違スル旨ヲ當該檢事ニ告白セシカ故ニ縱令自首及ヒ誣告等ノ法律語ヲ用ヰサリシト雖モ其自首ノ意タリシヤ言ヲ俟タス而シテ該被誣告人八兵衛ニ對スル推問ノ以前ナレハ刑法第三百五十六條ニ依リ本刑ヲ免セラルヘキモノトス然ルニ原院カ被告人カ對シテ刑ヲ言渡サレタルハ失當ノ裁判ナリト云フニ在レトモ◎原院判决ニハ被告カ木下八兵衛ニ對シ誣告ヲ爲シタル後八兵衛ノ推問ヲ始ムル前ニ自首シタリトノ事實ヲ認メタルコトナシ左レハ原院カ刑法第三百五十六條ノ適用ヲ爲サヽリシハ相當ナルノミナラス元來自首ノ有無ハ一ノ事實問題ナレハ原院カ自首ノ事實ヲ認メサリシ以上ハ之ニ對シテ非難ヲ爲スヲ得ス畢竟本論旨ハ原院ノ認メサル事實ヲ提出シテ原判决ヲ非難スルモノニシテ上告ノ理由ナシ
第二點原判决ヲ査閲スルニ被告人ノ代理人カナシタル告訴中ニハ八兵衛(被誣告人)カ私印盜用私書僞造行使ヲナシタル年月日及場所ヲ表示セス換言セハ八兵衛ハ何年何月何日某所ニ於テ私印盜用私書僞造行使ノ行爲アリシ事實ヲ告訴セル旨ヲ明ニセサルニヨリ隨テ被告人カナシタル告訴ハ確定シタル犯罪事實ヲ申告シタルヤ否ヤ亦明ナラス則原判决ハ擬律ノ當否ヲ鑑査スルニ由ナキ理由不備ノ裁判ナリト思料スト云ヒ」第三點本件記録中ニ在ル被告ヨリ辯護士須田哲ニ交付セル明治三十六年十月十八日附告訴ノ委任状ニハ件名ヲ記載セス即チ委任ノ欠缺アルモノナレハ哲ノナシタル告訴ハ之ヲ被告人ノ意思ニ出テタルモノトナスヲ得ス左レハ其告訴ハヨシ不實ナリトスルモ被告人ニ於テ責任ヲ負フヘキモノニアラス原院ハ此緊要ナル事實ヲ等閑ニ付シ被告人ニ對シテ誣告ノ罪アリト斷定セラレタルハ委任ニ關スル法則ニ違背シタルモノト思料スト云フニ在リ◎然レトモ不實ノ事ヲ以テ人ヲ誣告シタルトキハ刑法第三百五十五條ノ誣告罪ヲ構成スルニヨリ原院ニ於テ被告カ木下八兵衛ヲ相手取リ同人カ自分ノ印影ヲ盜用シテ貸金ノ受收證ヲ僞造行使シタル旨不實ノ事實ヲ以テ富山地方裁判所檢事正岩田孝慈ニ告訴シタル事實ヲ認メタル以上ハ被告カ犯罪トナルヘキ不實ノ事柄ヲ以テ木下八兵衛ヲ告訴シタルコト明了ナレハ其誣告罪構成事實ノ認定トシテ毫モ欠クル所ナシ故ニ原院カ八兵衛ノ私印盜用私書僞造行使ノ日月場所等ヲ告訴ノ内容事實トシテ判文ニ明示セサリシトテ判决ノ理由ニ不備アルモノト云フヲ得ス又明治三十六年十月十八日附被告ヨリ辯護士須田哲宛告訴委任状ニハ所論ノ如ク告訴ノ件名ヲ明記シアラスト雖モ原院ハ被告カ木下八兵衛ヲ輕罪ニ陷ラシメント欲シ代理人須田哲ヲシテ八兵衛ニ對シ告訴ヲ爲サシメ以テ誣告罪ヲ犯シタル事實ヲ證據ニヨリ認定シアリテ須田哲ニ對スル代理委任状ノ完全ナルト否トハ毫モ本件犯罪ノ成否ニ關係ナキ事柄ナルヲ以テ原院判决ハ相當ナリ故ニ第二點三點ノ論旨ハ共ニ理由ナシ
辯護人長島鷲太郎日高直次上告趣意辯明擴張書ノ第一點ハ本件被告人ハ誣告ヲ爲シタル後明治三十六年十一月十七日ヲ以テ富山地方裁判所檢事正ニ自首ヲ爲シタルモノナリ(記録第四十七丁目)抑モ誣告事件ニ於ケル自首ハ刑法第三百五十六條ニ適合セルトキハ刑ノ全免ヲ成スノ結果ヲ生スルヲ以テ其自首カ適法ナルヤ否ヤハ頗ル重要ノ事實ニ屬ス故ニ裁判所ハ判决ヲ爲スニ當リ其事實ヲ審理シ效力ノ有無ヲ判定スヘキハ當然ノ理ナリ然ルニ原院ハ啻ニ其判决ヲ下サヽルノミナラス自首ノ事實ニ付テ何等ノ審理ヲ盡サヽルハ不適法ナリト云ヒ」第二點更ニ一歩ヲ進メテ自首ノ事實ヲ觀ルニ誣告事件ノ被告人タル木下八兵衛ニ對スル告訴ハ明治三十六年十一月六日ヲ以テ不起訴ノ處分ニ付シ(記録第二十四丁)却テ本件被告ニ對シ同日ヲ以テ豫審ヲ求メタルモノナリ(記録第二十五丁)而シテ被告ハ第一點ノ通リ明治三十六年十一月十七日ヲ以テ自首ヲ爲シタル故ニ其自首タルヤ誣告ノ被告人タル木下八兵衛ニ對シ未其推問ヲ爲サヽル以前ニ於テ爲シタルモノナレハ刑法第三百五十六條ニ依リ當然刑ノ全免ヲ言渡スヘキモノナリ稍モスレハ刑法第三百五十六條ノ所謂推問トハ檢事カ搜査處分ニ依リ聽取書ヲ作成スル場合モ亦之ヲ包含スルト爲スモノナキニ非スト雖モ然ラス元來告訴ノ目的ハ檢事ノ起訴ヲ促スニアリ故ニ一旦起訴ノ手續アルトキハ告訴ハ茲ニ其目的ヲ達シタルモノト謂フヘシ此ニ因リ誣告ヲナシタル場合ニ於テ未タ起訴以前ニ於テ其虚僞タリシコトヲ自首スルトキハ何等ノ實害ヲ生スルコトナクシテ已ムノミナラス可成犯人ヲシテ悔悟ノ機ヲ得セシメンカ爲メニ特ニ刑法第三百五十六條ヲ設ケタルナリ左レハ所謂推問トハ公判若クハ豫審ニ於ケル取調ヲ指稱スルモノニシテ檢事カ任意ニ出頭セル者ニ對スル聽取ヲ包含スルモノニ非ス右ノ理由ニ依リ原院ハ刑ノ全免ヲ言渡スヘキニ其然ラサルハ不法ナリト云フニ在リ◎然レトモ自首ノ有無ハ一ノ事實問題ナルヲ以テ原院カ自首ノ事實ヲ認メタル以上ハ之カ法律上ノ效果ヲ判定スヘキ必要アルヘシト雖モ本件ニ於テハ原院ハ自首ノ事實ヲ認メサルニヨリ其法律上ノ效力ノ如何ヲ判示スヘキ必要ナシ第一點論旨ハ要スルニ原院ノ認メサル事實ヲ提出シテ原判文ヲ非難スルニ在レハ上告ノ理由ナシ又本件ニ付テハ被告ヨリ明治三十六年十一月十七日附自首状ノ提出アリト雖モ原院ハ之ヲ自首ノ事實トシテ認メサリシコト前顯説明ノ如クナルヲ以テ
第二點論旨ハ畢竟原院ノ判旨ニ副ハサル攻撃ニシテ固ヨリ採ルニ足ラサル所ナルノミナラス假リニ被告カ明治三十六年十一月十七日ニ自首ヲ爲シタルモノトスルモ被告ニ對スル誣告事件ノ豫審請求ハ明治三十六年十一月六日ナレハ被告ノ自首ハ自己ノ誣告罪ノ發覺後ニ係ルコト一件記録ニヨリ明了ナリトス而シテ刑法第三百五十六條ノ規定ハ刑法第八十五條ノ自首ノ一般條件ニ對シ一ノ特例ナル推問前ナルコトヲ要スル條件ヲ加ヘ以テ刑罰ノ全免ヲ定メタルモノニ過キサレハ該條規定ニヨル自首モ事ノ發覺前ナルコトヲ必要條件トスルハ固ヨリ論ナキヲ以テ本件ノ如ク被告ニ對シ誣告事件ノ訴追後ニ於テ自首スルモ决シテ刑法第三百五十六條ヲ適用スヘキモノニアラス故ニ本件ニ於テハ八兵衛ニ對シ未タ何等ノ訴追ナキ場合即未タ推問ヲ始メサル際ニ於テ被告カ自首シタルコト明ナリト雖モ已ニ自己犯罪ノ發覺後ノ自首ナルニヨリ到底該條ノ全免ヲ得ヘキモノニアラス然ラハ原院カ該條ヲ適用セサリシハ結局相當ニシテ上告論旨ハ何レヨリ見ルモ理由ナシ
右ノ理由ナルヲ以テ刑事訴訟法第二百八十五條ニヨリ本件上告ハ之ヲ棄却ス
檢事北川信從干與明治三十七年六月三日大審院第一刑事部
明治三十七年(レ)第九三三号
明治三十七年六月三日宣告
◎判決要旨
- 一 刑法第三百五十六条は自首の一般条件に対し推問前なることを要する特別条件を加へて刑罰の全免を定めたるものに過ぎざれば同条の規定に依る自首も亦事の発覚前に為すことを要す。
(参照)誣告を為すと雖も被告人の推問を始めざる前に於て誣告者自首したる時は本刑を免す(刑法第三百$五十六条)
右誣告事件に付、明治三十七年四月七日大坂控訴院に於て言渡したる判決を不法とし被告は上告を為したり。
依て刑事訴訟法第二百八十三条の定式を履行し判決すること左の如し
被告の上告趣意第一点は被告人は弁護士須田哲に木下八兵衛に対する告訴事件を委任し哲は明治三十六年十月十九日私印盗用私書偽造行使事件の告訴を為したることは事実なるも本件記録中にある告訴取下願と題する書面に明なる如く被告人は誣告事件発覚に先ち。
即ち同年十一月四日該告訴は真実と相違する旨を当該検事に告白せしか故に縦令自首及び誣告等の法律語を用ゐさりしと雖も其自首の意たりしや言を俟たず。
而して該被誣告人八兵衛に対する推問の以前なれば刑法第三百五十六条に依り本刑を免せらるべきものとす。
然るに原院が被告人が対して刑を言渡されたるは失当の裁判なりと云ふに在れども◎原院判決には被告が木下八兵衛に対し誣告を為したる後八兵衛の推問を始むる前に自首したりとの事実を認めたることなし左れば原院が刑法第三百五十六条の適用を為さざりしは相当なるのみならず元来自首の有無は一の事実問題なれば原院が自首の事実を認めざりし以上は之に対して非難を為すを得ず。
畢竟本論旨は原院の認めざる事実を提出して原判決を非難するものにして上告の理由なし。
第二点原判決を査閲するに被告人の代理人かなしたる告訴中には八兵衛(被誣告人)が私印盗用私書偽造行使をなしたる年月日及場所を表示せず換言せば八兵衛は何年何月何日某所に於て私印盗用私書偽造行使の行為ありし事実を告訴せる旨を明にせざるにより随で被告人かなしたる告訴は確定したる犯罪事実を申告したるや否や亦明ならず則原判決は擬律の当否を鑑査するに由なき理由不備の裁判なりと思料すと云ひ」第三点本件記録中に在る被告より弁護士須田哲に交付せる明治三十六年十月十八日附告訴の委任状には件名を記載せず。
即ち委任の欠欠あるものなれば哲のなしたる告訴は之を被告人の意思に出でたるものとなすを得ず。
左れば其告訴はよし不実なりとするも被告人に於て責任を負ふべきものにあらず。
原院は此緊要なる事実を等閑に付し被告人に対して誣告の罪ありと断定せられたるは委任に関する法則に違背したるものと思料すと云ふに在り◎。
然れども不実の事を以て人を誣告したるときは刑法第三百五十五条の誣告罪を構成するにより原院に於て被告が木下八兵衛を相手取り同人が自分の印影を盗用して貸金の受収証を偽造行使したる旨不実の事実を以て富山地方裁判所検事正岩田孝慈に告訴したる事実を認めたる以上は被告が犯罪となるべき不実の事柄を以て木下八兵衛を告訴したること明了なれば其誣告罪構成事実の認定として毫も欠くる所なし。
故に原院が八兵衛の私印盗用私書偽造行使の日月場所等を告訴の内容事実として判文に明示せざりしとて判決の理由に不備あるものと云ふを得ず。
又明治三十六年十月十八日附被告より弁護士須田哲宛告訴委任状には所論の如く告訴の件名を明記しあらずと雖も原院は被告が木下八兵衛を軽罪に陥らしめんと欲し代理人須田哲をして八兵衛に対し告訴を為さしめ以て誣告罪を犯したる事実を証拠により認定しありて須田哲に対する代理委任状の完全なると否とは毫も本件犯罪の成否に関係なき事柄なるを以て原院判決は相当なり。
故に第二点三点の論旨は共に理由なし。
弁護人長島鷲太郎日高直次上告趣意弁明拡張書の第一点は本件被告人は誣告を為したる後明治三十六年十一月十七日を以て富山地方裁判所検事正に自首を為したるものなり。
(記録第四十七丁目)。
抑も誣告事件に於ける自首は刑法第三百五十六条に適合せるときは刑の全免を成すの結果を生ずるを以て其自首が適法なるや否やは頗る重要の事実に属す。
故に裁判所は判決を為すに当り其事実を審理し効力の有無を判定すべきは当然の理なり。
然るに原院は啻に其判決を下さざるのみならず自首の事実に付て何等の審理を尽さざるは不適法なりと云ひ」第二点更に一歩を進めて自首の事実を観るに誣告事件の被告人たる木下八兵衛に対する告訴は明治三十六年十一月六日を以て不起訴の処分に付し(記録第二十四丁)却て本件被告に対し同日を以て予審を求めたるものなり。
(記録第二十五丁)。
而して被告は第一点の通り明治三十六年十一月十七日を以て自首を為したる故に其自首たるや誣告の被告人たる木下八兵衛に対し未其推問を為さざる以前に於て為したるものなれば刑法第三百五十六条に依り当然刑の全免を言渡すべきものなり。
稍もすれば刑法第三百五十六条の所謂推問とは検事が捜査処分に依り聴取書を作成する場合も亦之を包含すると為すものなきに非ずと雖も然らず元来告訴の目的は検事の起訴を促すにあり。
故に一旦起訴の手続あるときは告訴は茲に其目的を達したるものと謂ふべし。
此に因り誣告をなしたる場合に於て未だ起訴以前に於て其虚偽たりしことを自首するときは何等の実害を生ずることなくして己むのみならず可成犯人をして悔悟の機を得せしめんか為めに特に刑法第三百五十六条を設けたるなり。
左れば所謂推問とは公判若くは予審に於ける取調を指称するものにして検事が任意に出頭せる者に対する聴取を包含するものに非ず右の理由に依り原院は刑の全免を言渡すべきに其然らざるは不法なりと云ふに在り◎。
然れども自首の有無は一の事実問題なるを以て原院が自首の事実を認めたる以上は之が法律上の効果を判定すべき必要あるべしと雖も本件に於ては原院は自首の事実を認めざるにより其法律上の効力の如何を判示すべき必要なし。
第一点論旨は要するに原院の認めざる事実を提出して原判文を非難するに在れば上告の理由なし。
又本件に付ては被告より明治三十六年十一月十七日附自首状の提出ありと雖も原院は之を自首の事実として認めざりしこと前顕説明の如くなるを以て
第二点論旨は畢竟原院の判旨に副はざる攻撃にして固より採るに足らざる所なるのみならず仮りに被告が明治三十六年十一月十七日に自首を為したるものとするも被告に対する誣告事件の予審請求は明治三十六年十一月六日なれば被告の自首は自己の誣告罪の発覚後に係ること一件記録により明了なりとす。
而して刑法第三百五十六条の規定は刑法第八十五条の自首の一般条件に対し一の特例なる推問前なることを要する条件を加へ以て刑罰の全免を定めたるものに過ぎざれば該条規定による自首も事の発覚前なることを必要条件とするは固より論なきを以て本件の如く被告に対し誣告事件の訴追後に於て自首するも決して刑法第三百五十六条を適用すべきものにあらず。
故に本件に於ては八兵衛に対し未だ何等の訴追なき場合即未だ推問を始めざる際に於て被告が自首したること明なりと雖も己に自己犯罪の発覚後の自首なるにより到底該条の全免を得べきものにあらず。
然らば原院が該条を適用せざりしは結局相当にして上告論旨は何れより見るも理由なし。
右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条により本件上告は之を棄却す
検事北川信従干与明治三十七年六月三日大審院第一刑事部