詐欺取財未遂ノ件

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大審院刑事判決録（刑録）2輯2巻26頁

右詐欺取財未遂被告事件に付、明治二十八年十二月二十一日宮城控訴院に於て被告の控訴を審理したる末秋田地方裁判所の判決は相当にして被告の控訴は其理由なきに付、之を棄却すと言渡したる判決に対し被告は上告を為したり。

大審院に於て刑事訴訟法第二百八十三条の定式を履行し審判すること左の如し

被告の上告趣旨は被告に於ては原院が認定したる如き騙取[へんしゅ]の所為なし。 却て債務者たる千葉多一郎等が共謀して被告を誣ひたるものなり。 良し仮に数歩を譲り原院が認むる如く騙取[へんしゅ]に着手したる事実ありとするも金三百七十円の内金百三十九円は任意上貸借したることは債務者中田淳蔵等が之を認むることは予審以来の供述及び関係書類に徴して明瞭なり。 然るに金三百七十円の全部を騙取[へんしゅ]せんとして支払命令を申請したりとの事実を不法に確定したるは不法なりと云ふ[いう]に在で◎右前段の論旨は原承審官の職権に属する事実の認定を非難するに過ぎず又其後段の論旨は之を査閲するに被告より中田淳蔵に対し正当に金百三十九円を貸付けたりとの事実は原院の認むる所なれども淳蔵等より被告に金三百七十円の借用証書を交付したる際被告は右金百三十九円の借用証書を淳蔵に返付し以て金百三十九円の旧証書を金三百七十円の新証書に更改したりとの事実は原院の認定せざる所なり。 然らば則金百三十九円の証書と金三百七十円の証書とは別個のものなれば原院が金三百七十円の金額を騙取[へんしゅ]せんとして遂けざりしものなりと認定したるは決して不法にあらざるなり。

弁護士指田義雄の拡張論旨第一点は原院に於て詐欺取財の所為ありと認められたるは被告が金三百七十円の連借証書に対し以前の貸与金百三十九円を差引き金二百三十一円の貸増を為さずして其全額即ち金三百七十円の元利に対し支払命令の申請を為したること及び千葉多一郎等が債務弁済の方法として金七十円の連借証書を被告に差入るることを承認したることは原院の認むる処なり。 又訴訟記録中中田淳蔵等の予審調書に依るも金三百七十円の連借証書を被告に差入れて金百三十九円の証書を取戻したりとの供述あり。 故に原判文にも貸増を為さずと明示せり。 然らば則被告と淳蔵との間に於ては旧証書を返戻すること金二百三十一円を貸増することの二個の約定を以て金百三十九円の証書を金三百七十円の証書に更改し其証書の互に受授せられたる事実を認めながら他の一面に於ては金三百七十円の証書を以て一の空証券なりと認めたるは事実理由の齟齬[そご]ある判決なりと云ふ[いう]に在れども◎原判文に約定の貸増をなさず云云との事実を明示しあることは右論旨の如くなりと雖[いえども]も己に前項に説明したる如く金百三十九円の証書を金三百七十円の証書に更改したりとの事実は毫も[ごうも]原院の認定せざる処なれば金三百七十円の証書は金百三十九円の証書の更改に因で成立したるものと認むることを得ず。 然らば則金三百七十円の証書は別個のものなるに付、被告が其証書面の金員を一銭も貸与へざる以上は。 即ち一の空証券に外ならず。 故に原判決は毫も[ごうも]事実理由の齟齬[そご]することなし

同第二点は原院認定の事実に依れば金三百七十円の証書は被告に於て始めより騙取[へんしゅ]の意思あるにあらず。 適法に領収したるものなれば、即ち被告が金三百七十円の債権あることを証明すべき効力を有するものにして唯其証書に対し金二百三十一円の貸増を為すべき約定ありて未だ之を履行せざるに過ぎざるのみ故に其未だ貸増を為さざる部分を削減するの義務あるに止まるものなり。 而して[しこうして]民事訴訟法の規定に依れば支払命令の申請を為すも債務者が適当の時間に異議の申立を為すときは其手続は全く終了し更に通常の訴訟手続に依り請求せざる可からざるものなれば支払命令は単純に裁判所の手続に依る一の督促状たるに過ぎず。 然らば則被告の所為は適法に交付を受けたる証書に基き裁判所に督促を申立たりとの事実に外ならざれば之を以て詐欺取財の所為に着手したるものと為したるは擬律錯誤なりと云ふ[いう]に在れども◎原判文に明示する如く被告は金三百七十円の証書を受領したるも其未だ金員を貸与せず一の空証券たるを奇貨とし右証書面の金額を騙取[へんしゅ]せんとしたるものなれば仮令[たとい]該証書を受領したる当時悪意なしとするも之を以て詐欺取財にあらずとの理由と為すに足らず又支払命令は債務者に於て適法の期間内に異議の申立を為し得可き規定なりとするも己に支払命令の申請を為したる上は。 即ち裁判所に向て右証書面金額の請求を為したるに外ならざれば詐欺取財の所為に着手したるものなり。 故に原判決は擬律錯誤にあらず。

同第三点は本件支払命令書が千葉多一郎等五名に対し一、且、発せられたるは事実なるも該命令書は渡辺保蔵外一名の懇請を容れ明治二十七年十二月十四日付の約定に基き先づ証書の変造を為したる中田淳蔵岡本悌蔵に向て支払命令の送達を為し強制執行の上尚ほ不足あるときは其残額を他の連借人に於て弁済すべきことと為し支払命令を申請するに当り故らに被告は中田淳蔵外一名を除く外は其住所にあらざる場所に送達せしめ其送達を遂けざりし事実は訴訟記録に徴して明なり。 然るに原院は此事実を無視し連署者五名に送達を遂けたる如く判決したるは違法なり。 云云と云ふ[いう]に在れども◎原判文を査閲するに「（前略）右連署者五名に係り其元利合金四百十一円四十四銭の支払命令を大館区裁判所に申請し同月九日右五名へ各其命令書を発して送達せしめ云云」と明示しありて中田淳蔵及び岡本悌蔵を除き其他の者へは故らに送達を遂けしめざりしとの事実は原院の認定せざる所なれば本論旨の如きは固より[もとより]採るに足らざるものとす。

同第四点は原判文に「多一郎の告訴に因り遂に事発覚し云云」とあれども被告は曽て千葉多一郎より告訴を受けたることなきは訴訟記録に依り明白なれば原判決は架空の事実を判定したる不法ありと云ふ[いう]に在れども◎原判文を査閲するに多一郎が被告に係り告訴したるに因り遂に事発覚したりと認めたるにあらずして単に多一郎の告訴に因り事発覚したりと認めたるに過ぎず。 然らば則訴訟記録を査閲するに多一郎より中田淳蔵に係る告訴状の現存しあるに依れば多一郎が右の告訴に因で事発覚したりとの判旨なること明瞭なれば原判決は決して不法にあらざるなり。

同第五点は原判文に「原判決没収の処分は被告人に関係なきものと認む」とあれども第一審判決は被告に対しても亦[また]没収を言渡したること明白なれば原院は其言渡を以て不当なりと為せば宜しく其判決を取消さる可きに控訴を棄却したるは不法なりと云ひ」又右没収を言渡されたる証書面金三百七十円の内金三百円に関する部分は被告が仮令[たとい]貸増を為さざりしとするも少くとも旧義務の金百三十九円より新義務の金七十円を控訴したる残額に付、千葉多一郎等は格別中田淳蔵に対しては連帯債務者の一人として適法に債権を証明すべき証書にして之が変造部分の全体を禁制物として没収すべきものにあらざるに原院は此点に付、相当の判決を与へざるは不法なりと云ふ[いう]に在れども◎右前段の論旨は第一審判文を査閲するに金三百七十円の証書を変造したるは中田淳蔵の所為と認め之を処罰したるものにして毫も[ごうも]被告の関する所にあらず。 随で其変造証書に付、淳蔵に対して没収の言渡を為したるものにして被告に対し没収の言渡を為したるものに非ざることは明白なるに付、原院が没収の処分は被告に関係なきものと認めたるは固より[もとより]当然なり。 又其後段の論旨は己に説明したる如く没収の処分は被告に関するものにあらざれば此点に付、被告より不服を訴ふるの謂れなきものとす。

右の理由なるを以て刑事訴訟法第二百八十五条に依り本案の上告は之を棄却す

明治二十九年二月七日大審院第一刑事部公廷に於て検事安居修蔵立会宣告す