講談

町奉行跡部甲斐守
松林伯鶴口演
浪上義三郎速記
第五十席(大尾)
甲「何@047893;した高橋 吉「ハイ今夕方瀬戸物町定飛脚屋京屋彌兵衛方の店前を氣を配りながら通行いたしますと、淺草花川戸鈴木藤吉郎樣行、出羽の米澤にて大和屋内と申す合李三個確に見届ました故京屋で相尋ねましたる處明朝早く花川戸鈴木樣に差送ると云ふ趣きで厶います、夫故に別に押へ置必要もなく直に罷り出ましたが如何取計ひませうか 甲「イヤ夫は大きに御苦勞である、其合李の中は如何なる品があると見たか 吉「呉服太物類と心得ました、上包みは張拔の葛篭にして澁を強く引たる物絲立を以て上ないがいたしてありました吉「ヨシ明朝と云はず今宵の中に出張して其合李を開封せヨ 玄「左樣で厶いますか 甲「參れ甚左衛門 吉「ハツ…… 甲「馬の用意をせよ早くいたせ祕密なるぞと仰せられて、直に腹心の與力三名同心は高橋吉十郎池田五左衛門の二人を引連瀬戸物町の飛脚屋へ御出張になりました、只今なら司法官の職權上必要あつて家宅搜索を遊ばざれると同じく其權力神聖にして犯すべからず、京屋に於ては御奉行の仰せに隨ひ見世に積ある荷を故意と藏の中に入れ、小僧番頭の出入を禁じ、燃火は火の元大事に心を配り、持運びし荷を小口より封を切りました、時に甲斐殿は 甲「京屋 京「ハイ 甲「其方どもは永年定飛脚屋をして居るが、此荷札其他を附て以前の通りにする事が出來るか …「はイ夫はモー安ひ事で厶います、封印は只紙にて捲き、別に印を捺す墨を塗たるばかりなれば、墨色に多少濃薄ひは出來ませうが、私宅に永年遣ひます、彌左衛門と申すは荷造りには妙を得まして殆んど二十年來之に申しつけました 甲「左樣か早く蓋を排ろ、是から中を調べると或は節絲又は絲織只反物が詰あるのみ、合點ゆかずと節絲をくり數百反を一つ宛に改めしに外被をした下より金子二十五兩封じ殆んど二十包み程出でたり、茲に至つて益す疑ひの念が起た荷物を送れば仕切の金を取べきが當然なるに、合李の中に金子を入れたるは之不審となすべき第一、猶下づみを改めしに下に敷たる反古紙の間より、現はれし一通の手紙に鈴木藤吉郎殿親展書紫老父よりと記したり、直に開封して讀下せば
 老の身の何樂みもなく、只御身の御出世御繁昌ならん事を陰にて祈るのみ、身分いやしき悲しさは晴て東に登り、親兒無事の對面も叶はず至れば我は新町に便らんか、偶に大阪へ登れば渡邊村に宿す、宿世如何なる因果ぞと或ひは喞ち、又は御身の出世を悦び老を慰め居り候、聊かながら金子差送り候間御充分御出精相成り、猶も身の繁盛を計り給ふやう呉々願ひ上げ候
との概畧の文意を讀下し甲斐殿暫く小首を捻られしが、此紫の父と云ふは何者か、紫の由縁の色の濃なれどうつろい安さを以て恁匿名になしつるか身分賎き素性とは何か、新町又は渡邊村とあるが偖は人交りの叶はぬ穢多非人の類にもあるか兎に角ゆうゆうしき大事であると胸に問ひ胸に答へて並居る部下にも云へ聞ず、元々通りに反物を入れ荷造をなすと鷄鳴曉を告げました、京屋方には堅く口止めをいたし、若し洩る時には嚴罰に處せんと其侭手紙も中に入れ夜あけて藤吉郎方に配達をさせました、依つて部下の高橋吉十郎に早駕を以て米澤に至り紫と云ふ縁故に依りて萬事を取りしらぶべき赴き、簡短に仰せられる茲に到つて吉十郎夜を日に次で早駕を飛し、出羽米澤の御城下に來たつて縞の着物に縞の羽折、盲目縞の前懸がけ小倉の帶に朱色の矢立、江戸町人の手代風を粧ひ紫に縁故を段々尋ねたるのに、且て心當りなし然に或宿屋の番頭の云ふには、此在方に紫村と申す處ありて一ケ村皆な穢多のみ、皮職を以て業となすヨモや彼處では厶ざるまいかと話すを聞て吉十郎雀躍して悦び、賎き身分の悲さ云々に晴て親子の對面も叶はざるの文意と申て紫村に縁のあるを聞出だして、自ら小商人の姿にて米澤絲織、及び節絲の端切買出しの風に粧ひ、紫村に入り込て他のさゝやかなる穢多の家にて休息なし段々聞出だしたるに藤太夫方は男女二人で其末子一人ありしが文政九年の八月の頃、神かくしとなりて行衛知れざる赴きをウカと物語る、指を折て數ふれば世に時めく藤吉郎の年輩に附合せり依つて紫藤太夫方に來たりまして彼の老人の面體を餘所ながら見に、親子は爭へぬものにして目口鼻元に似よりし處あり、左れど白髮の老父腰は二重に曲り趨を以て顏の中央を埋むれば判然に夫とは見分がたきも娘の兼と云ふ者、年齡二十六七今は夫を持て家督相續をなす、之藤吉郎の血肉を分し兄妹なり、其の男女の區別はあれど、相貎に於ては少しも變りなし之を見るや否な悦んで直樣江戸表に取つて返し跡部甲斐殿に此事を申告いたしますと、甲斐殿憤然と怒られ甲「彼賎き身分なるに公儀直參と相成重役を聘睨し四民を蔑如して、白己主義に渉り肉體の快樂を貪つて仁義の道を知らず、實に免すべからざるの徒物なりとて、遂に御老中へ之を申告いたしました、然に諸役人方は藤吉郎の器量勝れしを愛され、穩便に計わるべきやう跡部に申しきけたり、此時甲斐殿曰く甲「天下の法は藤吉郎一人にて支配なすものに非ず、彼の器量に依て其罪科を助さんか、法は遂に亂れて國の大害となる、天下の掟は獨立を保つを以て始となす、跡部甲斐は不肖なりと雖も掟は之れ天下の法なり、何樣な口添之有とも曲る事叶はずと正正堂々たる議論に詮方なく遂に藤吉郎を捕へて傅馬町の獄に投ず、吟味中牢屋に於て死したるは鈴木藤吉郎の末路で厶います跡部甲斐殿無ば猶も鈴木が如何なる放逸をなしたるか、全く甲斐殿が社會にこびず司法權の獨立を保ちたるは、近世の美談として特筆すべき事なり、猶因に依つて申し上げますは例の津の國屋小染で厶います、藤吉郎は獄中で死し思ふ男の杉田は刑場の露となり、彌々世をうしと見て安政二年四月九日相州浦賀より遠州棒原郡石川村金兵衛船と云へる和船に乘込み、上方見物の心得て出でたるのが、遠江灘にて暴風に遇長不穩の爲其船の行末が知れず然るに今のハワイ國其頃サンドイチと云はれし時、其海岸に吹寄られからくも命助かり、后米國軍艦我が日本より歸米の途次之へ立寄り、小染の不幸を憫みサンフランシスコに連行かれましたが、お染はストリードと云ふ中學校にてボーイを勤め一心に語學を修め遂に教師と相成り、永く米國に居りましたと申す、先は當講談大尾と相成ました
后囘より 返咲浪花之梅と云ふ近世のお話しをいたします