雑報

◎伊庭の判决言渡し
(初審と同しく無期徒刑)
伊庭想太郎に係る星亨殺害被告事件は去る十九日控訴院に於て判决言渡しありしか當日は朝の程降雨ありしにも拘はらす傍聽人頗る多く審問當時と同じ雜沓を極たり午後一時裁判長は先つ被告を入廷せしめたる後左の如く判决を言渡したり
判决
靜岡縣小笠郡大須賀村横須賀士族
當時東京市四ツ谷區仲町二丁目
十六番地居住私塾文友舘主
被告 伊庭想太郎
嘉永四年十月生
右被告に對する謀殺事件に付き明治三十四年九月十日東京地方裁判所に於て其罪を認め酌量減等の上無期徒刑に處す差押の短刀一本は之を沒收す云云と言渡したる判决に對し同應檢事は之に服せす酌量減等すへきものに非すとの理由に付き控訴し辯護人は被告の行爲は故殺にして尚ほ酌減二等を與へらるへきものなりとの理由を以て附帶控訴をなしたるに依り本院は檢事豐島直通立合辯護を經て判决すること左の如し
原判决は之を取消す
被告を無期徒刑に處す
押收の短刀一本は之を沒收す其他の押收品は各所有者の還付す公訴費用金三十圓は被告の負擔とす
理由
被告は祖父累代劔法を教授せし家に生長し幼より武を學ひ後文事に志し教育の忽にすへからさるを曉り文友舘なる家塾を開き貴族富豪の子弟を集め氣質の鍜練特性の涵養に力を盡し來りしに當時星亨は政治界に於て領袖の地位を占め勢力を逞うし其人物行動に關し世間の非難攻撃の聲も又多かりしより被告は星亨を以て政治界の運動に關し常に金力壯士を利用し又議院内に於て賂金の多少に依り議案を左右し其東京市政に關與しても誠實ならさるの行動に出て殊の東京市參事會員の收賄事件の暴露するや彼は巨魁なるに拘らす反て法網を免れ爾來尚は恬然として東京市教育會々長の職にあるは天下後生の育英に大害あり此の如きは彼の政治界に於ける勢力強大にして道徳及法律の制裁以上に在るか故なりと信し大に之を憤慨し此の如くにして巳まさらんか風教頽廢徳義は地を拂ひ教育界は固より政治界紊亂を始め立憲政體の美果得て收むるに由なきを至らん今に於て之を救ふの途唯身を殺して彼を殪すの一あるのみと思惟し明治三十四年六月十二日遂に星亨を其市政を紊る場所と思惟せし東京市役所に於て東京を因みある武藏の銘ある自己が所有に係る傳家の短刀を以て之を殺害し彼と行動を共にせし徒をして自から悛めしめんと决意し同日其短刀を携へ家を出で同月二十日迄の間に於て或は其短刀を刀劍商に研かしめ或は宿屋に於て貴族院議員東京府會東京市會議員に宛たる斬奸趣意書各一通と妻貞養子孝甥榎下金田外三人小笠原長生に宛たる遺書各一通とを裁し或は星亨の邸に至り其動靜を偵ひ其間同月十七日中央新聞紙上に於て星亨の東京市教育會總會に於ける演説筆記を讀み其從來の教育方針を嘲り教科書に引用せる忠臣孝子を罵れるを見益々决意を鞏固にする所あり同月二十一日星亨の必す東京市役所に在るへきを察し事の實行を期し午前十一時頃短刀と斬奸趣意書及遺書とを携へ當時止宿せし東京府下澁谷村の瀧川ハナ方を出て東京市芝區芝口の紙商山村銀次郎方に於て日本、毎日、都の三新聞社に對し斬奸趣意書を貴族院衆議院及府會議員に送付すへきことを依頼する旨の書状を作り午後三時頃東京市役所に趣き其搆内に星亨の馬車の駐めあるを見其市役所に在るを確知し一且出てゝ遺書及ひ新聞社宛の書状を近傍の郵便函に投し再ひ市役所に至り巡視福與赳に名刺を交付して星亨に面會を求め所携の短刀と東京市會議員に宛たる斬奸趣意書とを懷にし應接所に於て其來るを待ちしに午後三時三十分頃赳は星亨か面會を謝絶する旨を告ぐるに及ひ赳の立去るや進んて市參事會室の戸外より室内を窺ひ星亨の議席にあるを見之に面會を求むるものゝ如く裝ひ徐ろに其室内に入り之に近くや突然逆賊星と叫ひ懷にせし所の短刀を以て先つ亨の左腋窩前壁上部をさし長さ一寸深三寸二分の創傷を負しめ次に右鎖骨下動靜脈を傷け肺臟を貫き左側の胸腔に達する長三寸の創傷を被らしめ尚其他後頭部左上膊左腹部左右手背左示指等を傷け星亨は其右鎖骨外端下部の刺傷の爲めに生したる急劇の大出血に因り即時死亡し被告は其殺害の目的を遂けたるものなり
以上の事實は被告か當法廷に於て其旨を自認すると押收の斬奸趣意書を見るに何れも被告は星亨と龝毫の怨恨なし唯亨か東京市教育會に會長として行ふ所横邪を極め市政を紊亂し敢て收賄の罪惡を犯し自ら耻ぢず滿天下の學生を墮落せしめ國家の大患を貽すに至るを以て身を拾て家へ顧みす天に代りて亨を誅する旨を記載するの書を殘し離縁状とある妻貞宛の書状には最愛なる御身を捨てゝ死に就くは實に忍ひさる處なるも國家の爲め事寔に巳むを得さるものあり而して死後累の御身に及はんを恐れ斷然御身を離縁せん後事は之を木原、榎本、小笠原、金田、加藤に謀れ養子孝は之を生家に復歸せしめよ實子秀丸は之を金田家に艷子は之を木原家に復し伊庭家は之を一時斷絶せしめよとの旨の記載あり伊庭交宛榎下金松外三人宛及小笠原長生宛の書状には何れも天下公認の如何を顧みす一身一家を棄て國家の爲に此擧に出つ宜しく後事を頼む旨の記載あると山根正次外二名の鑑定書は星亨の創傷の箇所其死亡の原因は前掲事實に掲載と同趣旨の記載あると押收の短刀東京市會議員宛斬奸趣意書に血液の附着しあるとを綜合し之を確認するに足るものとす
本件被告の行爲たる前掲事實に示すか如く事の必成を期し兇器を選み之を研かしめ且兇行の場所を選定する等大に思慮を廻らし以て兇行を敢てしたるものなれば其謀殺行爲たるや更に疑なし而して被告か星亨を以て國家に害あるものと信し此犯行を敢てしたるは其罪固より大なりと雖も被告をして茲に至らしめたる縁由を察する時は其情状に於て憫諒すへきものありと認む
之を法律に照らすに被告の所爲は刑法第二百九十二條に該當し死刑に處すへき所犯情原諒すへきものあるを以て刑法第八十九條第九十條に依り本刑に一等を減し無期徒刑に處するを相當なりとす又押收の短刀は被告の所有にして犯罪の用に供せしものなれは刑法第四十三條第二號第四十四條に依り之を沒收すへく其他の押收品は刑事訴訟法第二百二條公訴費用は刑法第四十五條に依り各處すへきものとす
然らは原判决は其實體上は相當にして檢事及辯護人の之に關する控訴の趣旨は相立たさりも第一審公判始末書に依れは檢事は伊庭想太郎に對する公訴事實は豫審終結决定の通りなり依て審判を求むと陳へたりとのみ記載しありて檢事は被告事件其れ自體を陳述したるものと認むるを得されは刑事訴訟法第二百十八條に背きたる形式上の瑕瑾あるを以て此點に於て檢事及辯護人の控訴は共に其理由あるを見る是れ本院は刑事訴訟法第二百六十一條第二項に從ひ主文の如く判决せし所以なり
明治三十五年四月十九日東京控訴院刑事第二部公廷に於て檢事豐島直通立會宣告す
同日同院に於て此の原本を作成す
裁判長判事 柿原武熊
判事 渡邊輝之助
判事 橋爪捨藏
判事 澤村勝
判事 辻秀春
裁判所書記 北川詮總