寄書
刑の時效制度を論す
國家か刑罰權を有する所以のものは何そや他なし國家の生存條件を妨害する犯罪を全然社會より除去せんとするにあり故に刑罰は必ず自懲他戒の性質を有せさるへからす換言せは犯罪人をして刑罰に懲り再犯をなさしめす又他人をして刑罰を惶れ犯罪をなさゝらしめんとするにあり而して一且罪を犯したるものは再犯の恐れあるものなれは必す之を刑罰に處せさるへからす然らされは自懲他戒の目的を達するを得す從て國家の生存條件を保全するを得さるなり
然るに此犯罪必罰の原則の例外に屬する一の制度あり彼の刑の時效に關する制度即ち之れなり此制度は果して克く國家の生存條件を保全するに最も必要の制度なるや否や余大に疑ひなき能はす余は今此制度に關する積極説に於て今日最も勢力あるものに就き聊評論を試みんと欲す
岡田博士等の説く處を聞くに其要旨に曰く
犯罪ありてより多くの年月を經過するときは被害者の感情和き世人犯罪事實を遺忘し犯人たるを知らすして生すへき平和の關係増加し餘り古き犯罪に對する所罰に就ては世人寧ろ犯人を憫み刑を惡む等の反對事情あるか故に刑の時效は刑法上存し置くの必要あり
と論者は多くの年月を經過するときは被害者の改情和くと云ふ夫れ或は然らん然りと雖とも犯罪中憫察すへきもの少くして極惡最も惡むへきもの其大部分を占むるは事實上明かなる所なり斯くの如く惡むへき犯罪人に對しても年月の經過と共に被害者の感情幾分は和く場合あるへきも其罰せらるゝを見聞して憫みの情を起すか如きは通常の感情を備ふるものゝ斷してなき所なるへし况んや刑を惡むの如き情に於ておや
又論者は年月の經過と共に世人犯罪事實を遺忘すと云ふ論者の云ふか如く輕微にる犯罪に對しては世人或は之を遺忘する場合もあらん然れとも極惡最も惡むへき犯罪人に對しては幾十年經過するも其犯罪事實を遺忘するものは少かるへしよしや論者に一歩を讓りて世人は犯罪事實を悉く遺忘するものと假定するも凡て犯人を罰するは犯罪の證明充分擧りたるものに限るものなるか故に無罪のものを罰するか如く世人は犯人に同情を表し其罰せらるゝを見聞して憫みの情を起すか如きは萬あるへき理なし况んや其刑を惡むか如きに於ておや次に又論者は年月の經過と共に犯人たるを知らすして生すへき平和の關係増加すと云ふよしや平和な關係増加すと雖とも犯罪人は矢張り犯罪人なり故に之を罰せらるゝを見聞する世人か憫みの情を起すか如きは道理上あるへき理なし况んや之れか爲め其刑を惡む如きに於ておや
以上の理由を以て見るに論者の立論は其根本たる事實の觀念に謬りあるを以て其結論の誤りたるは當然にして從て刑の時效の制度の刑法上必要なる事を充分に論明したるものと云ふを得さるなり今假に論者に數歩を讓り實際上犯人を憫み刑を惡む等の事情あるとするも苟も犯人にして國家の生存條件を妨害するの虞あるものは幾年月を經過するも斷然之を處罰すへきものとす何となれは一度犯罪を爲したるものは再犯の恐れあるものと見做すへきは當然にして巳に再犯の恐れあるものは之を刑罰に處して自懲他戒の手段を施さゝれは克く犯罪を防止し國家の生存條件を保全するを得されはなり而して刑の時效なるもの刑罰の執行を逃れて一定の年月を經過するときは其執行權消滅するの制度にして斯くの如き制度に據るときは犯罪人自然増加するの虞あり何となれは此制度あるか爲めに犯罪人中或は刑罰の執行を逃れ以て刑の時效を得んことを豫期して犯罪を實行するものなきを保せされはなり加之のみならす彼の極意最も惡むへき犯人を憫み刑を惡む等の感情は公儀正道に基つきたる感情にあらす故に斯くの如きの惡感情を正標として國家の法律を議せんとするは國家の生存條件を保全せんと欲して反て之れを防害するものにして啻に國家に益なきのみならす大に國家に害を與ふるものと斷言して憚からさるなり此の如き弊害ある制度なるにも拘はらす今日の立法上依然採用せられつゝあるは實に國家の爲め寒心すへき事ならすや前期議會の議に附せられたる我改世刑法草案を閲するに矢張り刑の時效制度を採用せられたり然れとも同期議會に於て幸ひ議决の運に至らさりしを悦ふ此時に當り當局者たるもの熟慮一番世の立方例に卒先して該制度を刑法上より撤去せられんことを熟望して止まさるなり