法曹叢談
◎湖南事件夢物語(一)
人心を懾動すると云つて、これほど天下の人心を〓動した事件は、先つ未曾有であらう。其警報の始めて吾人の耳朶す達した時は、全く亡然として居た、續いて其確報に接した時は、殆と絶倒せんばかりに寒心に禁@069452;なかつたのである。鳴呼湖南事件!鳴呼湖南事件!
十年と云ふも夢の一昔、忘れも置かぬ明治廿四年五月十一日と云ふが、則ち其日である。此日津田三藏と呼ふ狂漢が飛び出して、大津近傍御漫遊の露國皇太子(現皇帝)へ、畏くも白刄を擬すると云ふ大騷動を持ち上けた。其當時國民は如何に悲憤し痛恨したかは、未た誰の腦裏にも殘つて居る筈である。特に畏れ多くも其事を以聞するや、
陛下に於せられては、非常に軫念を惱ませられて直ちに駕を發して京都に幸行遊はされた程である狂漢津田は其場に押へられて、一先つ大津地方裁判所へ送られた。で、大津地方裁判所で大審院を開設する事になつた。所で三藏の行爲を以て、皇室に對する犯罪として死刑に處すべき乎、或は普通の謀殺未遂を以て諭すべき乎、の問題が起つてこれが爲め司法歴史に遺るべき面白き話がある。新年早々夢を語るも異なものではあるか、新に居て舊を忘れぬ心で、其話を爰にするとしやうよ。時の大審院長は今の衆議院議員二十銀行頭取兒島惟謙氏であつた。大審院部内の意見では、刑法第百十六條に皇室に對する罪として、天皇三皇皇太子に對し危害を加へ又は加へんとするものは死刑に處すとあるは、我帝國の天皇三皇皇太子に對する不敬罪を規定したるものにして、外國の皇室に對する規定にあらすと云ふに略々一定して居た。この解釋は固とり至當なる解釋と云はなくてはならぬ當時の内閣に椅子を列ねて居た連中は誰々と云ふに、確乎に總理大臣が松方正義氏で、司法大臣が故山田顯義氏内務大臣が西郷從道氏、外務大臣が青木周藏氏で、其他大木榎本陸奧高島と云ふ顏觸れなのであつた。閣外には伊藤井上と云ふ元老があつて頻りに閣議を催ふして、愈々大津地方裁判所で大審院を開廷するになつた。就ては大津三界へ出掛けることになつた大審院判事の面々には、堤正巳氏を裁判長に、其他中定勝、安居收藏、土師經典、高野貞遊、木下哲三郎、井上正一と云ふ七氏で、書記が中牟田豐親(現宮城控訴院書記長)と笹本榮藏の此二人である。尤も此時土師判事は郷里鹿兒島へ歸省中であつて、事件の出來を知らなかつたのであるが、恰度歸京の途に上つて居て神戸で始めて之を聞き、大に驚いて、直に大津に赴いた。土遲判事は當時家族を郷里から纒めて上京の際で、暫時大阪の親籍で遊ふ心算であつた、所が、月間かならず、風花を吹く位の騷にあらすして、方に天柱折れ地維〓くとも云ふべき空前絶後の騷動が持ち揚げたので、遊ふなと呆氣な氣樂な話でない、@069391;れで家族は大阪の親籍に預けて、自分は直に大津に向け出發したのである。判事中でもこの土師判事が最も強硬漢であつたさうだ。@069391;れから十八日の事、明日は愈々判事連は大津へ乘出す事に略々定まつた日の事で、兒島院長は判事連の事を心配しなから、晝喰を喫つて居ると、内閣から兒島院長に出閣すべき命か傳はつたのである。抑もこの院長召喚ころ、本事件をして最も正當に最も適法に判决をなさしめた導火線であつた。兒島院長は内閣よりの召喚を受け、夫れと心に察するので、食事も勿々に果して直に登閣すると、内閣には松方首相を始め、山田司法西郷内務なと云ふ大頭連か詰めて居る、松方首相は先つ兒島を別室に招き、懇々として説く所があつた。其口吻を假りに映さば、斯うである。
『三藏は是非皇室に對する不敬罪を以て論する事に内閣の决議をなしたから、裁判官諸公に於ても宜しく其旨を體せられたきものである。これ實に内閣の希望のみならず、實に國家の安寧を保つ上に於ても、是非@069391;の考で遣つて貰らいたいものぢや』
と反覆數遍に及ふまで懇々と泣き付くやうに依頼したのであるが兒島院長は斷乎として之を斥けて曰くサ
『自分は成る程院長である、院長ではあるか、院長を笠に被て、どふも同院の判事に對し、命令を下すことは出來ない、憲法治下の世の内では、司法官の獨立を害することを得ない、内閣か之に干渉するは不可なること勿論、院長と雖も裁判に容喙すること許さぬ。』
と白地に云ひ切つたものであるから、内閣員は大に憤つた、何有一言の下に院長を説き伏せやうと最初期した事が、瓦然違つたもので、孰れも周章狼狽、卓を打つて恕るもあり、腕も扼して罵るもありだ。某大臣の如きは怒り禁へさりけん、怒號して云へらく
『院長の威力を以て部下の判事を左右することの出來ぬ位の院長は、無能院長だ』と威喝し
或る者は
『兒島院長が如何に威張つても、若し品川冲に露艦が浸入して大砲を連發する段になづては、裁判官が如何に卓上で威張つても何の役にも立たぬ。』 と消極的に罵詈するものもあつた
『若し内閣の决議を實行して、社會から攻撃を受けるやうなことがあつたときは、其判事の身の上は、如何なる保護でもするから………、』
抔甘言を以て賺すも交つた。こういふ風に當時内閣員が、如何に大混雜を極めたかが知れる。
兒島院長はされども、一切の罵詈や、威喝や、甘言を身に受けて、自若として動かない。却つて嘲り返して曰く
『成る程吾々を保護するとのお言葉であるが、松方サンや西郷サンは死ぬまで大臣をお遣りなさる心算が知らさるも、匆々さう行くものにあらす。』
と遣つて除け、匆々屈する容貌かない、のみならす、滔々と司法權獨立の講議を始めた。閣員は@069391;れを聞く耳は今は持たぬのである。最早手段が竭きたから、最初の總捲一括の説法方を止めて、個人に就て説法する手段を採つた。
『では掛判事の氏名を聞かして下さい』
とこの一場の活性は爰に幕を綴ちたのである。
@069391;れから間もなく西郷山田の兩大臣は、自ら司法省まで出掛けて、係判事の内で、四名計りを招き例の兒島院長に向つて成效しなかつた口調を猶も襲用して、叱りつ賺しつ、諄々と非常に説き立てたのである。其外の高野判事は或る縁故で、大木文相か説くになり堤裁判長は陸奧農相が攻くになつた、
如何に説法の激けしかつたのか、司法省から歸つた判事は、悄然として實に困つたと云ふ風采が其表に現はれて見へる。それも固よりさうあるべきで、當時の内閣は現今と違ひ、藩閣政府の最も勢力を得て居る時で、實に飛ぶ鳥も瞋めは墮ちやうと云ふ勢ひ。斯くと見て取つて兒島院長は、今更ら判事連の變心者があつて、政府の意見に從ふやうの事ありては、それこ@069391;一大事と、非常に心痛をなし、我部屋へ各判事を招きて、今朝來の内閣の模樣を一通り話したる上、各判事の臍の緒を固めさせんものと、
『今般の問題は、實に司法官として、極眞摯に法律を適用すべきである。國家が大事であるか友人が大事であるか、宜しく諸君の腹裏で决定してもらはなくてはならぬ。國家と友人の輕重は餘の説明するまでもなく、既に業に諸君の明にする所てある、』
斯う云ふ風に、内閣は内閣、大審院は大審院で、各々其執る所の説を貫通しやうとして、殆と東奔西走南駛北馳、遑なしと云ふ光景であつた。斯かる光景であるから、十八日の如きは、徹夜會議に盡し、翌十九日も朝三四時から最早會議を始めた先つ豫審調を大津地方裁判所豫審判事土井庸太郎氏を命する事になつた。
二十日は愈々係判事は大津に向け出發すると云ふことに略々决まつて居たので、兒島院長は書記森春吉氏を司法省に遣つて旅費を受取らせやうとすると、司法省では旅費の調達が出來ぬから、少し延引してくれとの事を歸つて報告した。何しろ旅費なくては一足も進むことが出來ないから、已を得す明後日即ち二十二日出發と改めたのである。所で折角是から出て行かうと云ふ扮裝を仕して出て來た判事連も、已む得ず其侭悄々と歸宅した。所が俄に司法省より今夜々行で出發すべしと云ふ通信があつた。其所で十九日夜十時の夜行列車に愈々乘込んたのである。
是から如何なる活舞臺が開かれるかは、次號のお樂として、今囘は先つ此等で筆を擱くとしやうだか一言云つて置く事かある。他でもないが、今夜汽車に乘込んた判事連の中には、三四人は政府の説法に屈して、政府の希望通り判决するであらうと云ふ風評が、何方となく起つたのである。兒島院長の苦心想ふべし察すべしだ。