法曹叢談

石壷山人
田健次郎君の昔咄し
前遞信總務長官情友會總務委員田健次郎君、君曾て官海の寵兒たりし如く、又將に政海の寧馨兒たらんとす。頃日客に向つて古を語つて曰く
 『自分も素と二年間許裁判官をやつて居た、それは明治九年から十二年で、その頃自分が最も感服した人は今の大審院判事の芹澤政温君ぢや芹澤君に就いて何をさう感敗したかと云ふに、其勉強と強情なのに感服した。君は上杉家の門閥家で明治十年に上杉家の家扶から一躍して愛知裁判所長になつた。所が同裁判所には彼の明治の復仇で有名な臼井六郎に刺れた一瀬直久など云ふ判事が居たのぢや。すると芹澤君が全然素人から裁判官になり、しかも所長になつたので皆が馬鹿にして、民事部の判事は到頭反抗運動を演つて、同盟休職をやつたのぢや。所が其頃には目安糾と云ふ法があつて、これは所長が自分にやることになつて居た、これがどふしても毎日二百五六十件もあらふと云ふ話、目安糾と云つても@054897;々難しいもので、目安糾で受理なつても、後に不受理となると、それこそ八釜しい。それを芹器君は自分は素人でありながら下には老練なる判事を澤山置いて、毎日二百五六十積と云ふ目安糾を、當至々々やつたものぢや。自分は其時は同衙の刑事部に居たから、同盟休職には加はらなかつたが、午後三時過ぎ退廳する頃にも芹澤君は一人白洲に殘つて、毎白頻に審問をやつて居る。所が此所に可笑いのは、名古屋言葉はオキヤーセモなんで、他國人に少し了り兼ねる所に、芹澤君は米澤の人で、これが其其言葉が玉にかゝつて了り難い。そこで審問するにも答辯するにも通譯官なくてはならぬと云ふ光景、それにも關らず、餘程強情な性質と見へ、朝は早くから夜は十時頃まで、審問して一向平氣で居るのぢや。であるものだから他の民事部の判事等は同盟休業しても、所長が一人で至當々々民事を裁判するから堪らない。今度は手を換へて辭職勸告と出掛けたが、芹澤君は頑として動かない、拙者が所長たる事は天皇陛下の任命であるからお前達のお世話にはなりませぬと發揮言つたもので、厄氣連はこれにも手を突き、今度は司法省に向つて所長轉任運動を始めたけれども、芹澤君は一向平氣であつた、實に珍らしい強情な人で、感服の外はない。
奇妙な命名
記者頃日或る必要を感じ、東京地方裁判所に就き戸籍簿の借覽を請ひ、之れが取調をなす折柄、ゆくりなく一奇譚をこそ發見したれ。
維新以來我國民は誰れ彼れとなく、權兵衛も八兵衛も自由勝手に氏名を呼ぶを許されたれば、徳川家康と名乘るも新田義貞、源義經など名付くるも差して不都合はなきものゝ然りとてこれは又飛び放れたる命名なり。同衙備付の戸限簿轉籍の部にて見るともなく目に着きたるは左の一家籍なり
龝田縣鹿角郡花輪町五十三番地の内五番地平民
戸主 西村鐵道
   文久三年十月生
妻 レン
  明治十年 生
長男 電信
   四歳
次男 電話
と@035934;ならで眞正面に記されたれば、記者は想はず失笑するを禁ずる能はざりしが、想へば文明の利器を其侭に命名するも亦一發明か、然るにても妻の名のレンは恐らくレールの誤記なるらし、この後男女の産れたらんには如何に名付くるか、記者が試みに名付みたれば、
三男 郵便
長女 はがき
と名づくべきも、さて其後に産まれたる兒の名は如何にすべき乎、新開乎。