史伝
ザイデル博士
赤門
最近者の獨逸諸法律雜誌は何れもバイエルンの公〓大家マツクス、フオン、ザイデル氏の訃音を傳へて哀悼の意を表し其小傳を煮頭に掲げざるはなし、中に就て「立法及法學評論」に載せたるもの最簡潔なるを以て概要を録して本誌に寄す
小にしてはミユレヘン大學、大にしては獨逸學界の明星と仰がれたるマツクス、フオン、サイデル博士は一九〇一年四月廿三日を以て溘焉として逝きる博士は一八四六年九月七日ハルド山より程近きデルメルスハイムに生れ父をウ井ルヘルム、フオレ、ザイデルといひ當時築城隊の少佐なりしが後累進して少將に至り母はテレゼ、シルヘルといひて今猶健在せり
サイデル十八歳にしてミユンヘンのルウドウ井ツと高等學校をば優等を以て卒業し一八六四年龝を以てミユレヘン大學に入りぬ爾後五年に亘れる大學生活中造詣する所頗大、其間其參聽したる講義の主なるものはヘルマン氏の經濟學及財政學、ボルギアノー氏の民事訴訟法破産法、ペーツルのバイエルン行政法、プランクの刑法等なりき、一八六九年轉じて北行してウユルツブルグの專門學校に遊び專公法の講莚に連なりぬ一八七二年三月初めて官途に就き内務省に入て上バイエルン地方局の參事官となり同年五月文部省に入れ大臣ルツツの眷顧を受け之に縁て終生學者として世に立つの道を開きぷ七八年所謂高利貸問題に付剴切なる意見を發表し其翌年バイエルン内務省の統計局長となり其職に在る事一年にして内務の議政官に榮進したりき
一八八一年ミユンヘン大學のペーツル博士死するや是より先國法學上の著作に嘖々の名聲を〓せ又甞てドルパート大學の招聘を拒絶して七三年以來專陸軍士官學校に國法及國際法を講じ來れるザイデル氏は最適當なるペーツル氏の後任を以て擬せられ遂にミユンヘン大學の懇望に應じてバイエルン國法及行政法の講座を擔任するに至れり其後二年を經て醫學博士ツエーレルの女ヨハンナと結婚し伉儷輯睦琴瑟相和し幸福なる家庭は爰に成りぬザイデル氏頭腦明快思索縱横先天的學者たるの資質を備えき其壯年時代は宛も獨逸の各邦兄弟墻裡に鬩ぎたる龝にして續て新獨逸帝國の組織を見るに及んで新に國法學の法理を創建するの氣運勃興し之に關して簇生する基本問題の論爭に全力を傾注せり既に其國法上の處女作なる聯邦々家の意義(一八七二年チユービンゲン國家學雜誌所載)の如きは當時法律學の意義明確ならずして政治學と國法學とを混淆したる風潮に對し將又公法上に多かりし擬制説特に當時有力なりしワイツの聯邦説に對する挑戰の檄なりき次で「一般國家學の概念」を著せしが其著言中に氏が法律學上の主義の映像とも見るべき語句あり曰く人類學術の全般に亘りて今や實體的觀念の着實有力濔漫し來るを見る而して氏滔々たる時代の風潮に逆ふは素より愚のみ凡學理探究の本旨は一意 念眞理の源泉を溯及して孜々己まざるに存す故に學問より之を見れば最高なる實體主義は最高なる理想主義に外ならずと此書の論ずる所に依て之を見れば氏は統治權は論理上無制限を以て要素とし從て不分割のものなりと論斷せしかば各聯邦國家の本體は統治權の分割により成立すとなしたる當時流行の學設は是が爲に大打撃を蒙りいつか消滅し去るに至りぬ氏は又統治權を以て國家の意義の重要なる要素なりとし從て此前提より出る當然の論結として總括國家及上級國家なるものなしと主張し契約上の性質を有する國家の聯結及統一國家は充分なる地方分權によりて成效すべしとなしたり氏奇矯なる議論の公にせらるゝや獨逸國家といへる政治上の熟語を妄信する社會は仔細に氏の説を解剖して其當否を鑑別するの勞を取らずして酷評雨下氏を以て帝國の敵民權黨の首唱者法王崇拜黨となしき是實に氏の眞意を誤解したるの甚しきものなりしが氏は答辯の價値なしとして此風評を雲烟過眼視し唯自己所説の當否を研究して營々倦むことを知らざりき
一八七〇年獨逸帝國の建設成るや一般の獨逸國民は帝國の建設は元來各國民に共同の權利竝利益の存ずるによるものとなせり氏は此政治思想を以て謬妄なりと信じたりしも之を駁撃するは學者の本分にあらずとなし唯いかなる形式に依て聯邦組織は發生したりやの問題を攷究して實際の事實を妥當なる定義の下に抽象するに至ては政治家の容喙すべき餘地なき學者の職責なりとせり
如上の諸原則は續て公にせられたる獨逸帝國憲法註譯(一八七三出版)聯邦の意義及獨逸帝國に於る國家の概念(一八七四出版)聯邦毆家の最新なる意義(一八七六出版)等の諸論文に於て縱横に解説せられ註譯的著作の白眉と稱へられたり一八九三年國法及政治上の論集出で總て是等の著述に依て氏の特色は今や充分に發輝せられボロニア大學のロツシー氏は評して公法の基礎に對する特殊の觀察其概念の明晰と系統的立論の精確なるとは氏をして最卓越せる獨逸諸大家の上に位せしむるに足るといへり
帝國々法上の圈内に於て氏は二個の實際問題に遭遭せり一は特別高等軍事裁判所に於るバイヱルン法律の適用解釋問題他はリツペ候國の繼承問題是なり後の問題に就ては法理上より分析して明晰なる意見を發表せしも聯邦會義の容るゝ所とならざりき
氏の最顯著なる著作はバイヱルン憲法の解釋是なり(第一版六册一八八四―一八九三)(第二版四册一八十六―九七)此浩澣なる大作はバイヱルン憲法行政法の問題に關する最高の證典となり大ザイデルの盛名學界を震蕩し地方國法に關する著作中形式内容共に完備せるものなりと稱へられき元來學術上の著作にして實際社會に直接重大なる影響を與ふるもの稀なりと雖氏に至ては國法學の根本問題に就き極めて實際的の觀察考究に長け社會に貢獻する所頗大なるものありき材料豐富にして系統整然徽に入り細を穿ちて而も大綱を逸せず宜なりバイヱルン政府が氏に耗するに國法上の諸法令の改訂起草を以てし氏よく其知遇に報うる所ありし事やかくて氏は今日に至る迄立法部及行政部に於て公法上の問題に關する第一流のアウトリテートたる地位を失墜せざりき氏は亦よく世情に通曉すると共に論理の術に長じ自家議論の立脚點を解明する事洒脱輕妙、較もすれば誤謬に陷り易き擬制的論法及比喩的論法を國法學の研究場裡より驅逐し共不覇獨立の研 は遂に公法の發達上大革新を催進するの基をなせり而して其主なる著作は啻に其郷國なるバイヱルンに於るのみならず其他の邦國に於ても國法上の知識の不滅の源泉として之を後昆に傅て百代の珍となすに足る氏が國法學者としての位置及其實際主義の研究方法の效果に就てロツシー氏は近頃一片の評隲を試みぬ曰くザイデルの學は獨逸法學界現在の時代精神と背戻する事大なり現時普通の傾向として初は主として事實に基き、斷案を下すに至て全事實を眼中に置ず且正確なる證明方法を輕視して形式に拘泥する事等總て是等の弊はザイデルに見る事を得ざりき故にザイデルの著作は時流に投せざるもの多く其眞價に該當する稱讃を博する能はず又正々堂々たる攻撃を受くる事なかりきと
氏は自已の信じて公にしたる學理原則を固守して渝る事なかり氏は教授として著者として眞 公明に其分を盡し世の粉々たる毀譽褒貶に關せず男らしく所見を發表して是非を世に質すをにて自已の天職なり又母國に對する義務なりと思惟したりき氏嘗て歌ふて曰く生より死に至る迄餘は名譽の爲に力むるものなりと
ザイデル氏が勤勉不撓の精力は决して國法學の範疇に消耗せられ終りたるものに非ざりき氏は專門以外高尚なる趣味に富み年少學窗に在るの頃よりして餘暇あれば古代文獻の妙趣に思を潛め時に其模作飜譯を試み既に一八七二年マツクス、シユリールバツハといへる名の下に擬古體の詩集を公にせり氏は殊に希臘召代の文明を渇仰し其美術音樂詩歌に對して追墓擱く能はず其遺韵を味ふて崇高なる思索に耽る事屡なりき氏の悲觀的思想は彷徨として其ものせる詩歌の間に現れ而もその死が其詩に見@069452;たる希望の如く餘りに早かりしは惜むべきことといふべし
病魔は忽焉來て一八九四年氏を襲ひ爾後荏苒として活せず一八九七年の冬に至て遂に講議を中止するに至り九九年春に及び全之を廢絶せり獨意氣は毫も銷沈せず病床の中猶活動の日あるを夢想せしも天遂に氏に籍すに齡を以てせず此精神界無冠の帝王は今年五月を以て天に歸りぬ (完)