法曹叢談
森嚴如神
裁判官に對する轉所處分は、最も愼重を要すべき所にして、其結果の如何は直に司法長官の威信に及し、鼎の輕重を問はるゝに至るべし。本邦轉所問題を以て有名なるもの、千谷某あり、別所某あり、尚は未だ讀者の耳底に存する所なるべし。餘は今獨逸國に於ける裁判官轉所問題が如何に嚴格に、峻峭に解决さるゝかを讀者に報ぜんと欲す。
獨國に一法官あり、露國々境に偏在せる田舍の區裁判所に存在する既に五星霜、而して彼は常に首府なる伯林に轉任せんことを望むの念や切也。長官亦彼の技量の採るに足るべきあるを認め、遂に援いて伯林市内の某區裁判所に轉補す。某の喜悦や思ふに大なるべし。居ること未だ幾何ならずして某の妻の父、一猶太人と地境を爭ひ、訴遂に區裁判所に繋がれ、審理の結果敗は猶太人に歸したり、是に於て猶太人は謂らく、彼れ其女婿に附請して以て是に至ると、憤然親書を長官に臻し、以て某の不正を彈劾し且つ彼の妻の父なるものゝ前科ある事を發く。長官是に於て控訴院長に命じて事實の調査を行はしむ。而して院長の報告に依れば妻の父なるものに前科あるは事實なるも、某が該事件に關し私曲を行ふたりと云ふに至つては、一の根據だもなきが如し。然れども某は遂に彼の猶太人がなしたる一片の誣告書に依つて、折角數年の苦心に由つて得たる伯林區裁判所判事の地位を去り、再び地方に轉補されざるを得ざるの事情に會したり。本件に對する當時獨逸司法省の意見なるものは、某や罪なし其情頗ぶる忍ぶべからざるものありと雖も、苟も斯の如き親告あるに於ては、司法官の威信に關するもの尠からざるを以て當局は敢へ某に轉所を命ぜざるを得ずと。獨國法官の峻嚴なる以て知るに足るべし。
寄語す、我司法當局長官の所感果して如何。吾曹は獨國の如く峻峭なれと云ふものにあらざるも殷鑑遠からず前法相に在り。然れども物夫れ度あり、當を得ざれば則ち鳴る。古人語あり曰く、大絃急なれば小經絶ゆと、政は猶ほ瑟を張るが如き乎。司法大臣清浦奎吾君夫れこの語に鑑みるあらば、則ち國家の大慶也。
由布君の女厄
由布武三郎君、曾て席を横濱裁判所判事に措く頃未だ伉儷なく、同地根岸に僑居し、今の行政裁判所評定官菅谷正樹君と倶に居る。一日廳に臨むや一美人あり、明眸皎齒、匹儔に絶せるの姿を有し、而も夫の離婚を訴求す。君乃ち之れが任に當り、能く審理するに至り、着々として理當に美人に存す。則ち其夫に對し離婚請求の當然なる事を宣告す。既にして廳を退き歸家するや、尋いて訪ふものあり。喃々たる其聲當に婦人なるが如し。君則ち謂らく、吾曹の寓、未だ婦人の來訪に接するの幸を有せず、知るべし其門違なるをと、試に出で之に接せば、何ぞ知らん廷中の美人ならんとは。則ち其來意を糾す。美人、含羞、漸く携ふる所の縮緬の帛紗を披き、一大菓子箱をその前に致し、@006297;々として其勞を謝す、辭頗る慇懃也。君、深く之を辭するも、美人頑として可かず。遂に之を玄關に委して去る。君爲めに之を惱み、之れが返還の手續を行はんとして、央ろ起つて厠に上る偶々菅谷君外より歸來し、其書齋に入るや、主待ち顏の菓子箱、敢て人の撮むに委すものゝ如し。菅谷君則ち謂らく、由布君の齋らす所と、又他意なし。乃ち徐ろに蓋を排し、陳々たる美菓、驀然其一を撮んで之を喫し、曰く、好哉々々。時に由布君厠より下り、以て其無慘なる光景を一瞥し、且つ驚き且つ憤り、具に菓子箱の由來を語り、以て返還を不能に歸せしめたるを責む。菅谷君是に於て初めて好下物の由來を聞き、頗る自家の輕佻なりしを謝し、且づ曰く、余輩の粗忽、萬謝の他なし。然れども請ふ、怒ることを休めよ、君にして若し此贈物を亨受せんか、或は收賄罪を成すに至るべしと雖も、余に於ては局外漢たり。余に於て之を辯償する又不可なけん。と遂に人をして其償を彼の美人に賠はしむ。居ること數日にして更らに一奇譚は起れり。一日某なるもの、彼の美人の意を齎らし、由布君に致して曰く、請ふ妾をして郎君の箒掃の役に服せしむるを許せ蓬窗破竈更らに辭せずと。由布君嚴として之を拒絶すと雖も、美人晝夜君に犬戀して、其志頗ぶる牢なるが如し。君是に於て己を得ず轉所願を司法大臣に提出し、漸く其女厄を免るゝを得たりと、艷福なる哉。世の自稱好男子なるもの、宜しく君の爪を垢を煎して之を服し、以て女冥加を祈りて可也。