論説
刑法上の惡事醜行
判事
刑法第三百五十八條に所謂惡事醜行とは名譽を毀損すべき行爲に外ならず是れ誹毀罪が名譽に對する犯罪なるよりして何人も疑を容れざる所なり而して名譽なるものは令名若くは令聞の意味にして其當時に於ける社會一般人の好感覺に過きざるが故に刑法上に於て如何なる行爲が惡事醜行なる乎を判定するには主として社會一般の感覺に依らざるべからざる匁論にして决して純理に依て决すべからざること疑なきなり即刑法上の惡事醜行は純粹道徳學上の惡事醜行と同一視するを得べきに非ざるなり
元來道徳は畢竟聖賢の理想に外ならざるが故に其高低標凖必づしも千古不易に非ず各聖賢同一に非ずして洋の東西に依り時の古今に伴ひ將た各聖賢の理想に依り必づしも同一ならず即ち孔孟の道は老莊筍子の學理と同一ならず「ソクラテス」「プラトウ」の説は亦釋迦耶蘇等の理想と異れも然り此の如く千差萬別なりと雖も何れも其高尚にして一の眞理を含むは盖し同樣なるべし而かも聖賢は常に必づしも社會に入れられず黄金時代は恰かも百年河清を待つに等とし果して然らば純粹道徳が必づしも社會一般褒貶の標凖たらざるは己むを得ざるの事實にして道徳上即聖賢理想上の善惡美醜と社會感覺上の善惡美醜と一致せざるも亦固より怪しむに足らざるなり而して社會感覺上の善行美事を爲す者は縱令聖賢の理想に反するも社會一般は之を褒揚して令聞茲に發し名譽茲に生し社會感覺上の惡事醜行を爲すものはよし聖賢の道徳看念に符合するも社會一般は之を貶黜して惡聲茲に發し不名譽因て生ず乃知る不名譽的行爲たるべきものは聖賢理想上則道徳上の惡事醜行に非ずして社會感覺上の惡事醜行なることを而して亦知るべし社會感覺上の惡事醜行が名譽毀損の行爲にして即刑法上の惡事醜行なることを
然らば刑法は何故に社會感覺上の惡事醜行を摘發したるものを罰して聖賢理想上の惡事醜行を摘發したるものを罰せざる乎是れ他なし聖賢理想上即道徳上の惡事醜行なるものは其標凖區々にして一定せざるのみならす法律は到底一般人民をして強て賢人君子の理想に依らしむる能はず殊に刑法の保護せんとする所は人の社會に於る名譽に在り而して道徳上の惡事醜行は必つしも其當時の社會に於ける不名譽行爲とならざること前述の如くなれば道徳上の惡事醜行を摘發したるものを罰するも以て人の名譽を保護するに足らさることあればなり夫れ此の如くなれば刑法三百五十八條の所謂惡事醜行は一に社會一般感覺上の毀譽褒貶より來らざるべからざること明かなり然らば藝妓娼妓を伴ふ遊興は今日の社會に於て果して之を名譽を失墜毀損すべき惡事醜行と認むるや否や之が爲めに紳士の地位より擯斥せらるゝ行爲となるや否やと云ふに今日滔々たる社會に於て上層下層の別なく却て紳縉の宴席に藝妓の侍せざるなく又或遊興の結局は多くは遊郭に入るに歸着するも社會一般は別に之を非議せず又之を擯斥せず殆んど何等の制裁も之に加ふることなし藝妓の如き却て紳縉の宴會及び他の遊興の必要具と爲り居るも未だ之が爲めに紳士の名譽を毀損失墜したるを聞かざるなり果して然らば藝妓娼妓を伴ふ遊興は現時の社會は別に之を名譽毀損の惡事醜行と認めずと云はざるを得ざるに非ずや
近者松本君平對東京朝日新聞誹毀事件に付東京區裁判所の爲したる判决を非議するものあり依て一言其妄を辨す