雑報
◎司法官の意見書
東京地方裁判所及び區裁判所判檢事諸氏は過日夜九段富士見軒に集會し協議の結果大々的運動に着手する計畫にて先づ六十八名の連署を以て左の如き意見書を發表したり
司法官の増俸に關し敢て江湖に問ふ
餘等は憲法の條章に循ひ法律の規定に依り國家の司法權を行用すべき重大の責任を負ふ者にして吾帝都百五十萬生靈の生命身體財産の安固は擔て餘等の雙肩に在り其職責の重大なる夫れ斯の如くなるを以て裁判所構成法は特に任用の資格を規定し餘等は螢雪多年の勞苦を積み經驗を重ね以て今日あるに至りたるものなり
抑も法は死物にして人に依て行はる故に國家の法典は善美を極むると雖も苟も之を運用すべき司法官其人を得ざる時は徒法空文に終るのみならず或は無益の訴訟を濫起し無辜をして寃抂に悲ましめ個人の權利は之を伸張するに由なく國家の安寧は之を保持するに途なきに至る今や新條約の實施に依り宇内萬邦の巨民をして吾法廷に立たしむるの光榮を得たると同時に列國は常に吾が爲す所を環視し苟も一旦吾司法權の活動に對し不信の念を抱くに至らば此光輝ある國家の進運を阻却するに至らん是れ餘等の常に憂慮に堪へざる所なり
法は人に依て行はる苟も吾司法機關の光榮ある活動を見んと欲せば須らく人材を招致し吾司法部内をして學殖豐富操行廉潔にして卓拔の識見を有する名士の淵薮たらしめざるべからず而して國士を遇する自から其途なくんばあらざるなり然るに國家が司法官に對する待遇の冷淡にして地位俸祿の卑薄なる宇内萬邦に其比を見ざる所なり殊に吾下級判檢事の俸給に至ては殆んど勞働者の賃金に等しからんとす年少子弟苟も學に導し業を修め其功名を期し其利達を圖るは固より人情の然らしむる所なり是を以て新進有爲の士は皆避けて司法の門に入るを欲せず現に其職に在る者と雖も亦爭うて他に求むる所あらんとす今にして救濟の策を講ぜずんば其の結果の及ぶ所將さに測るべからざるものあらんとす官哉司法官優遇の問題は漸く識者の間に唱道せられ特に昨春遣外法官の歸朝するや大に吾現状に慨し盛に朝野に皷吹し其結果當局大臣は閣議を經て判檢事及書記の増俸に關する費用を豫算案中に編入せられ政府は之を本期の帝國議會に提出し餘等宿昔の希望は將さに其幾分を達せんとするに至れり
然るに國民の意思を代表すべき衆議院は殆ど何等の討議を須ひず忽ち其全部を削除し了れり鳴呼吾國民は司法機關の光榮ある活動を望まざるの國民なるか鳴〓吾國民は學殖豐富操行廉潔にして卓拔の識見を有する名士の裁判を希はざるの國民なるか惟ふに吾忠良なる國民は個人の權利を尊崇し國家の安寧を希圖し此光輝する帝國の進運を阻害せんとするの凶兆を見るに當りては常に餘等と其憂慮を同うするの國民なりと信ず而して衆議院の措置は豈に此光輝ある帝國の進運を阻害せんとするの凶兆に非ざるなきを得んや是れ餘輩の長大息する所にして敢て江湖に問はんと欲する所なり
道路説を爲す者あり曰く現時の司法官は其人物に比し現時の俸給を以て相當とすと又曰く司法官俸給の必要は之を認むるも行政整理の時を俟つ未た必ずしも遲しとせず鳴呼果して然るか若し現時の司法官其人を得ずとせば國家は宜しく法律を制定し陶汰を斷行して可なり餘等若し其器にあらずとして法律の力に依り陶汰せらるゝに至りては自から甘んずる所にして决して地位に戀々するものにあらず又徒らに自家の福利を希圖するが爲に増俸の必要を主張するものにあらず世若し自ら潔うして而て後増俸の必要を説くべしと云ふ者あらば餘等進で挂冠を辭せざるなり
行政整理云々の事に至ては餘等大に説者と其所見を異にするものあり抑も事には前後の序あり物には終始の別あり若し之を轉倒せば事物徒に混亂に終らんのみ而して行政整理の事たる或は敕令の變更法律の改正其他の方法に依て實行せらるべきものにして爲に必要なる費用の支出は豫算案として議會の協贊を經ざるべからず故に司法官増俸に關する豫算の如きは先づ議會の協贊を經而して俸給令の改正に及ばざるべからず未だ豫算の成立せざるに先だち俸給令の改正を上奏するを得ざるや明かなり衆議院にして若し眞に行政整理を希圖するものなりとせば何に故當局者をして其實を擧ぐるを得せしむべき方法を講ぜざるか漫然増俸案を否决し而して司法部の改良刷新を圖るべしと云ふに至ては事物の前後を轉倒し徒に混亂に〓るを顧みざるものと云はざるを得ず若し夫れ行政整理とは唯國費を削減するの一事なりと云ふに至ては餘等又何をか云はん
衆議院は行政整理を期するが故に一切の新事業及び増俸に關する豫算を一旦否定すべしとの意ならんか何の故に製鋼所設立費及び兩院書記官の増俸案を可决せしや其間の消息は盖し察知するに難からず然れども國運の隆替と同權の消長に關する司法の豫算案を以て徒に政畧又は黨略の犧牲に供ずるに至ては餘等實に悲憤に堪へざるなり
貴族院は各階級を代表し下院の行動を矯正すべき至高の立法府なるが故に事茲に至ては須らく其權能を行使し其職責を全うせざるべからず賢明なる議員諸君は豈に之を知らざるの理あらんや今や司法の豫算案は同院豫算委員會の手に在り盖し數日を出でずして院議に上るに當りては該案の復活を見るや明かなり而して兩院協議會の日に於ては衆議院も大に反省する所なからざるべかちず而して國民も亦果して衆議院か國民の眞意を代表するものなるや否やを監視せずして可ならんや敢て江湖有識の士に問ふ
岩田一郎、和仁貞吉、嘉山幹一、今村恭太、羽生顯親、横山寛平郎前澤成美(以上東京地方裁判所部長)▲大澤眞吉、中川富太郎、永田恆三郎、梅田幸一郎、潮恆太郎、内田良輔、宮崎恆三郎、三宅徳業、水原親次、島田鐵吉、森井良策、關口環、鈴木英太郎、松田道一佐藤繁之、吾孫子勝、佐々木道彦、中尾芳助(以上東京地方裁判所判事)石井爲吉、本田恆虎、波多野高吉、奧田峻、中村政藏、中西用徳、松澤九郎、小山松吉、小疇傳、江村忠之助、尾佐竹猛、和氣甚八郎、渡邊一郎(以上同所檢事)▲石井豐七郎、林源治、林頼三郎、原元藏、玉川次致、中山男、玉川要人、山本守時、古閑又郎五、櫻井駒次郎(以上東京區裁判所判事)▲岡本巖、渡部龍一郎、横田五郎、谷川清澄、鶴田政、土屋信民、中村太郎、山脇貞夫、澁淵孝雄、中島玉吉、熊谷直太、藤岡大英、吉崎龜之助、辻秀春、名村伸、永野柳藏、野崎新太郎、鬼澤藏之助、成道鷲次郎(以上同所檢事)▲早川早治(八王子區裁判所判事)