論説

隨感隨筆(四)
靄軒
讀伊藤侯之演説
伊藤侯が去る二十八日政友會の席上に於て演述せられたるものなりとして新聞紙上に記載するものを觀、展讀一過、深く其言の時務に切なるを見、胸中轉た感慨に勝へざるものあり、侯爵の言に謂へるあり『元來東洋流の仕掛と云ふものは毎々形式的のものが多いのである』又た曰く『元來行政上の事は講釋をすると形式的に遺るのが主たる目的ではない』云々鳴呼此數言は實に滔たる時弊の由て來りし其淵源を明かにし、後來の施設に對し箴規を與ふる上に於て洵に千萬呶々の能く及ぼ所に非ず、豈に啻に之を指して行政の行爲のみと云はん從來我が立法の上に於て將た制度組織の上に於て或は材能の養成に於て皆な此東洋流の仕掛けを用ゐ外觀形式の上に於て滿足し其實效實力を頗みるに遑なかりしに非ず或、予は曾て言へりしことあり現時に於ける通患は外觀甚だ美にしん其實之に伴はず事は徒らに形式の上に馳せて實效を顧みず法制愈よ繁多にして機關愈よ複雜を告げ機關複雜なるに從て事務は益々多きを加へ事務益々多くして愈よ人員の多くを要し人員多きを要して經費足らず經費充分ならざるか爲に待遇從つて厚きを得ず待遇厚からず從つて材能を得る能はず啻に威信驚きを得ざるのみならず啻に紛擾を招くに至る畢竟するに從來の法制は我が國情に相偶せざりしなり
刻下に於ける急務は、徒らに外觀の美を求めんよりも寧ろ其實質をして美ならしむるに在り徒らに形式の上に馳せんよりも寧ろ實效を主とするに在り徒に法制の煩密ならんよりも寧ろ出來得る限りは之れを簡捷ならしむるに在り徒らに機關をして復雜ならしめんよりは寧ろ出來得る限りは之を簡單ならしむるに在り徒らに多數の人員を使用せんよりも寧ろ出來得る限りは之を少數ならしめ以て材能を求むるに在り大に材能を集めて深く之に任し以て實際に於て遺憾なく其技能を盡さしむるに在り、如斯にして民初めて之を信じ法廷の威信此に於てか顯はれんと。予豈に先覺の名を御はんことを望むと言はん、又豈に其素志を抂げて顯貴に阿附するものならん、予は裏心司法部の爲に、否寧ろ國家民人の爲に今や侯爵の言を聞ひて欣、堪へざるものあり。侯爵又言へるあり『何れの國に於ても事の進歩するのは事實上の經驗より歸納したるものにて此經驗が工夫と爲り制度と爲つて行はるゝ即ち夫れより以外に方法を設けて國家の行政の改正を求むることは出來ない國各其体を異にし制度組織必ずしも其採る所の方法同一軌轍に據る譯のものてはない同一に出來ること出來にことのあるのは勿論の話しである』云々是亦啻に行政のみに非るなり、立法司法亦决して此外に出づべきものに非ず、實際を離れて法を編み法を行ふ焉ぞ能く其美果を收むることを得ん單に泰西立法の傾向なりと云へるが如きことのみに依て直に之に模傚せんとするは妄なり法は須く國情と民俗に相偶せざるべからざるなり、鳴呼侯爵の心を用ゐらるゝこと如斯、職に其局に當り任に其の衛に膺るもの豈に盛意に副はずして可なんや
對客問
一日客あり問て曰く、頃者新聞紙上傳ふるものあり、子が刑法の改正に關する所説は當局者の忌諱に觸るゝと果して眞歟。靄軒徐ろに對て曰斷じて斯ること無し乞ふ暫く予の説を聞け。二三者荐りに法の改廢を主張するものあり、而して政府は未た採て以て之を成案と爲さゞる以前に於て、誠心誠意法の改廢の非なるを慨し、之を先蹤に鑑み異邦の例に察し、上は政府の爲に下は國民の爲に切に其策の得たるものに非ることを述ぶ、假令ひ二三者之を忌めりとするも是れ豈に政府國民に對して忠ならずとせん。
又政府改正の議を容れ其案を採つて政府の成案と爲し議會の議に付したりとせん、事此に至て其可否の决は議會の公議に在り、徒に私議を逞ふして以て公議を惑はさんことを虞り、自ら其地位に顧み状况に察し斷乎として緘默を守り以て公議の是非に任す、是れ豈に公私の分を明かにし又能く公徳に顧み其規律を遵守するものに非ずや、
政府國民に對して忠なること如斯、公私の分を明なきし規律を恪遵すること如斯、將た何の辭を以て之を咎めんとはする、如何なる理由の存するものあつて之を云々せんとはする、法曹法を論す何の異む所かあらん、况や一般の利害に關し永久に渉るの法に於てをや、之が可否を論じ以て至善至美を求めんとするは寧ろ法曹の任なる可し、公明なる政府の當局者何すれば斯くの如く狹量ならん宜或は未だ曾て云々するものあるを聞かず又將來に於ても云々するものあることを信ぜず、若し假りに之に有りとせば是れ實に二三者の言なり、政府の言に非ず、予は竊に思ふ果して如斯ことありとせば二三者は寧ろ政府の徳を傷るものなり、累を政府に及ぼすものなり、豈に悲まさるべけんや、予は本問題に付ては徳議上已に緘默を守るべこことを以したり、左れど苟も不當に予を云々するものあらば予豈に默して已むものならん乎夫れ之を安んせよ、客唯々として去る(明治三十四年一月三十一日稿)