講談

町奉行跡部甲斐守
松林伯鶴口演
浪上義三郎速記
第五席(つゞき)
前囘に述ました、文政九年八月十五日の夜、渡邊源兵衛久は、男子の捨子を拾ひ上げ、其夜我が家へ連歸りますと、細君の悦びも又一と通りならず殊に病身最早子を設くべき、見込もなき故、寵愛彌増り、之に名を源次郎と號ました、然し長男は太郎と名號るが、其頃の習慣なれど、次郎ことせしは深き仔細のある事、渡邊の妻は、未だ老朽しに非ず、若も病氣全快なして、男子を生ば、必ず我が生の兒に相續させたきは人情、其時拾子を惣領の名義になせば、世間へ對して思はくも如何と、假に次男と見て源次郎と名號ました、昔しは名の呼方にて兄弟の順預が分解しもの、惣領を太郎、次男を次郎、三男を三郎、四郎五郎、六郎七郎八郎九郎十郎、十一番目を與一、十二番目を與次三十分などと云ふ、殆んど時計に似合し名儀、招牌は見安く、名は呼安くすべしと云ふのが其頃の習慣、今日今も猶斯ありたきものです、昔の川柳に
 無筆でも讀め煙草と蝋燭や
目に一丁字なしと云へど、煙草屋は柿色の暖簾を用ひ、障子に葉を畫く、蝋燭屋は張拔の蝋燭の看板を下る、コレ無筆にも見安いと云ふのが第一、只今或商店なぞでは、店頭の看板を畫家に揮毫を乞て、最むづかしく認め、傍に平假名を振たるあり、購求の客に對して不敬察すべし、假名を振ずんば讀まじと云ふ來客を蔑如したるにひとしく思はれました、寧假名ばかりの方然るべしと存じます、間話休題源次郎成長するに從ひ、天賦の器量實に一を聞て十を知るの奇才を備へました、門前の小僧、勸學院の雀、實にや朱に交れば赤くなるとか、父源兵衛が經書の教授なすにつれ、大勢の生徒は朝夕出入なし、讀書の聲は宛然小田に鳴出す蛙の如く、夫を見るにつけ聞につけて、大學朱熹章句子程子の曰く、大學は孔子の遺書にして初學徳に入るの門なりなぞと、尤愛々しく頤を尖らし讀書を眞似る、父源兵衛頼母敷事に思ひ、門人の引るを待、教へ見るに、必ず兩三囘にて記臆なす、其記臆力の能事大人も及ばず、十三歳の時には、ハヤ論語孟子を終たり、夫婦の悦び譬ふるにものなく、女武兩道は車の兩輪、治に亂を忘れずのたとへ、武藝も又肝要なりとて、相當の師を選んで、撃劍を學ばしむ、時に江戸神田於玉ヶ池にて、其頃天下に聞へたる千葉周作と申し撃劒家あり、彼の人は以前二番原に於て指南役、小野派一刀流の名人、原田要人か門人で厶ります、然る門弟多き其中より、奧州生れの周作と云ふもの大刀筋のさはやかなる事は、恰度鞍馬山の僧正が谷に小太刀を學びしと聞く、御曹司牛若の如き早業、殊に、志も優にやさしく、師に仕ふる事、十年一日の如く、故に原田要人は、行々我が娘の婿となし、原田の家を相續させべきと内々夫婦協議の上、周作にも薄々其由をほのめかせば、千葉の悦び一と方ならず、一層修業に念を入れ、師に代つて多くの門弟へ代稽古をなす、然るに如何なる千葉の不幸にや、或時道場武者格子の表に「顆多打集ふて見池なす其内に、菅笠を冠り、薦を背負如何樣田舍漢にして、馬喰町邊の單客と見へたり五六人のものは、周作先生の代稽古の態を穴の明くほど眺め居りしが、思はず一人聲を發しまして
 △『アレアスコで劒術を尻ふてござつしやる方は俺が方の周作でねへかと思はず口走りました、然るに寵極まるものは狷まれ、名の榮るものは譏られるとやら、追て周作を原田の婿養子にすると云ふを、門人どもはきゝ小人の誰彼は、之を狷み嫉むのあまり、何か事あれかとし待居る時しも、今の見物の評判奇貨措べしとなして、表へ駈出で、彼の田舍者を捉へて 門『汝等今の一言に、降が方の周作にあらずやと申せしは、如何なる故ぞ、シテ又其方は何處のものぞと尋問なすと、彼の百姓等は面色をかへ玉なす汗を拭ながら、 ○『誠にハア申し分も厶リませぬ、棄どもは奧州西置賜郡山の邊と申す處の百姓、手前の村中に番太と申すのが厶ります、江戸の方には分りますまいが、之を小屋者と申して、樫の六尺棒を常に携へ、日夜村の近傍をまはり、惡者どもが立廻れば、之を取押へて俺等の安全を計られる、其代り給金として、毎月々末には麻袋を持參して米や錢を集めて往くのを禮となします、其小屋者の忰周作とて、十二三歳まで村に居りしが至つて劒術を能く遣ひ、生涯小屋者で置くは惜きものよと、誰彼寄〓ふ時には噂のみいたして居りましたが、其後何處へ行きしか行衛しれず、死んだものかと存じ、噂も遂に絶ましたが、今日劒術を遣はつしやる方を見たら、瓜を二ッと云ひたいが依然其侭、夫故俺が方の周作でねへかいと、下郎は口の善惡ないもの、思はず聲を出しました、何とも恐れ入りました、偏にお免し下されよと、這々の體にて一同逃歸りました依て門人協議の上此事を師匠要人に訴へる、原田先生も當惑せられ、由緒たゞしぎ當家の婿養子にはなしがたし、道場へ置くさへ、他の門弟の思はく如何と、無情も破門を申し渡す、周作は其仔細を知らず、只冷熱の烈しきに驚くのみ、天下の英雄なれば敢て云ひ爭ふの念もなく、道場を立去らんと致す時、原出先生の曰く 原『汝撃劒とみに上達せり、何れに至つて道場を持つも敢て差支はなけれども、小野派一刀流の看板を掲げる事は禁ずるぞ、茲に至つて周作彌々不審晴やらず、欝々として二番原を立出、神田鍋町邊を通行の折、豫て知る人に面會なし、師匠破門の事を語れば、一同大いに惜み、遂に於玉ケ池に道場を建る所となる小野派を除て北辰となす、我國に北辰一刀流の出たるは此時を始めとなす、名代の名人市中の評判となり、招かすして來たり、勸めずして入門なす技倆を狷む原出要人の門弟の中には、千葉方へ入門替をなすもの、三十五人に及ぶときく、其中より名を得たる門弟多き中に、平田造酒と云ふものは、天保水滸傳に能く出て居る、下總方面に於て撃劒の手の内を示しましたが、海保半平は水戸殿へ御抱へとなり、前の中約言齊昭公の御指南を命ぜられる、之れ千葉周作の推擧に依る事、五月女萬彌と申し御人は、之は出羽の庄内へ來り、酒井左衛門尉殿御城下に於て、指南をなし尤も譽れ高し、渡邊源兵衛大に悦び、忰源治郎を右萬彌の道場へ内弟子として送る、日間行く駒のあがき早く殆んど五ヶ年を過す、源治郎の修業更に屈せず腕を練磨し甲斐あつて、十八歳の五月、身には襤褸を纏へども、武藝の錦を重ねて無事に龝出へ立歸りました。 (未完)