判决例
◎娼妓廢業届に連署請求事件
控訴人愛知縣名古屋市花園町二十七番戸平民席貸業鈴木仙次郎訴訟代理人藍川清成長島鷲太郎兩氏より被控訴人岐阜縣稻葉郡上加納村百六十番の三大橋ヒサ訴訟代理人岩崎義憲氏に係る娼妓廢業届に違署捺印請求控訴事件に付き控訴代理人は原判决を廢業し更に被控訴人の請求を棄却せられ度旨申立たり而して其妨訴抗辯の主張として本訴一定の申立を見るに『被告は原告が娼妓廢業届に連署捺印すべし』たあり然るに此連署捺印なるものは全く娼妓營業取締に關する愛知縣令第四十八號第三十八條の強要するものにして其性質行政法政規に屬し席貸主と營業者との間に於ける契約の效果と何等の關係なし殊に從來行政管轄廳は正當の理由に基く塲合に在りては娼妓の自由廢業を許すべきこと愛知縣令の所定するところなるのみならず此解釋の益々判明せる今日に於て席貸主が署名捺印せざればとて之を司法裁判所に於て請求したるは最も謂はれなきの甚しきものと云ふに在り次に本案に對する陳述の要旨は娼妓出稼は國家の公認する營業なるに付き娼妓出稼を目的とする契約は固とより有效にして公の秩序若くは善良の風俗に反するものに非ず然るに被控訴人が此契約を無效なりとし未だ貸金の辯濟を爲さず約定期間の經過せざる今日に在て本訴の請求を爲すは不當なりと云ふに在り
被控訴人は控訴を棄却すとの判决を求むと申立て妨訴抗辯に對しては營業の存廢は各人の自由に屬し何人も之を製肘するの權なしと雖も娼妓の稼に至りては醜業にして一種特別の取締法を以て廢業する塲合には席貸主の連署を要するの規定あり故に廢業の目的を達せんとするときは席貸主の連署を求巧ざるべからず而して本件は娼妓稼業を目的とする契約の有效無效を爭ひ之に原因して連署捺印を求むるものなれば司法裁判所の管轄に屬すべきものなりと主張せり
右に對し名古屋控訴院民事部裁判長藤田隆三郎判事牛山松藏藤田菊江多羅尾篤吉眞鍋十藏の五氏は左の判决を爲したり
(主文)本件控訴は之を棄却す控訴費用は控訴人の負擔とす
(理由)先づ『妨訴龝辯』に付き其當否を案ずるに被控訴人の請求は甞て當事者間に締結せる契約を無效とし娼妓營業を廢せんとするに際し之が手續〓〓〓なりとする廢業届書に控訴人の連署捺印を求むるものにして即ち一私人より一私人に對し或作爲の債務の履行を求むるに外ならざれば假令其訴求の基く所は行政法規にありとするも其權利干係は私權に屬し本件は司法裁判所の管轄に屬すること疑を容れず故に妨訴抗辯は其理由なし
次に『本案』に付き其曲直を案ずるに抑契約が公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とするや否は固とより事實の問題なるを以て法令に何等規定する處なき事項に關しては裁判所は其事項の實質を調査し果して公の秩序又は善良の風俗に反するや否を定めざるべからずと雖も苟も法令に於て規定する事項に關しては裁判所は其法令に覊束せられ其實質の如何に拘らず之に牴觸する斷定を下すを得ざるを以て法令の明かに禁ずる處の事項は公の秩序又は善良の風俗に反せざるものと論ずる〓得ざると同時に法令の明かに許す事項は亦公の秩序又は善良の風俗に反するものと論ずるを得ざるなり而して娼妓營業なるものは法令に於て明かに公認する事項なることは雙方爭ひなき處なれば假令其實質に於ては醜汚の所業たる嫌なき能はずと雖ども裁判所は該法令を無視し之を以て公の秩序又は善良の風俗に反する事項なりと云ふを得ず若夫娼妓と爲るべき者の自由を過度に拘束し人身賣買に類するが如き契約を爲さんには此契約は其點に於て或は公の秩序に反し無效を來たすことあるべしと雖も本件當事者間の娼妓稼業契約は其期限を滿五ヶ年とし其期限を經過するときは負債金未濟と雖も尚且被控訴人をして廢業を許すべき旨の明文あり毫も人身賣買に類するが如き嫌なきを以て此點を以ても亦無效とするを得ず然れども右契約には約定の期間内被控訴人をして結婚を爲さしめざる旨の條項あることは控訴人も爭はざる處なり葢婚姻は倫理の最も重んずべきものにして社會の秩序に關すること重大なれば之を禁ずることを以て目的とする法律行爲は乃ち公の秩序に反し無效たること論を俟たず而して當事者が右契約を締結するに當り其不法の條項を以て必要の約款と爲し之に重きを置きたることは其契約の性質上之を認め得べきを以て其契約全部無效とするを相當とす已に右契約にして全部無效なる上は被控訴人は本訴請求を拒む理由なきものとす故に原判决は其理由に於て穩當ならざる處ありと雖も其主文は本院の判决に一致するに付き本訴控訴は結局其理由なきに歸す依て民事訴訟法第四百二十四條に則り主文の如く判决す(本月廿四日判决書送達)
(注意)本件と同樣なる娼妓廢業認許の事件に就き名古屋地方裁判所は曩に左の如き判决を下したり其見解の異なる所以て味ふべし
「惟ふに賣淫の所業たる其何等の事情に出づるを問はず善良の風俗に反するは固より論なし而して娼妓稼業は即ち賣淫を業とするものなるが故に其全く善良の風俗に反する亦疑を容れず被告は娼妓稼業を以て國法の是認する所なりと謂ふも而れども法律は道徳又は總教の條規に非るが故に其許容する事項も未だ必しも善良の風俗に反することなしと云ふを得ざるのみならず明治五年第二百五十八號布告に依れば正に其禁制たりしことを知るべし爾後或る事情に因り各地方多くは警察官署に於て其稼業を認許する所あるも其認許は唯だ受諾者たる娼妓に對し密賣淫に關する法禁の效力を除斥するに過ぎずして决して其善良の風俗に反するの性質を變更するの效力ある可からず此に由て觀れば娼妓稼業は他の賣淫と同く亦善良の風俗に反するものと判斷するに於て些の疑惑を容るべき所なし左れば娼妓稼業を目的とせる本件當事者間の契約は本來無效にして何等の效力を生ずべきものに非ず云々』とこの判决の要旨に依る時は娼妓は善良の風俗に反するが故に若し遊治郎の徒にして恣に彼等を弄び所謂揚代金を支辯せずして立去る等の事あるも貸座敷は此等遊冷郎の徒に向つて揚代金の支拂を求むる權利なきものと云ふを得べし尚ほ娼妓が廢業届を差出すに當つて樓主等の料署を要するの點は今囘内務省令の改正に因つて全然無用に歸するに至りたるも控訴人は猶ほ其主張を貫く爲め上告を試むる由なるが右判旨中娼妓出稼契約期間結婚せしめずとの約款を以て重要の事項と認め其契約の金部無效を宣言せられたるは當事者雙方の少しく意外とせし處なる由なるが是等は全然同意を表すべき好判例と云ふべし