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兒玉秀雄 (第4版 [大正4(1915)年1月] の情報)

位階・勲等・功級從四位、勳四等
爵位・身分・家柄伯爵、山口縣華族
職業朝鮮總督府總務局長兼朝鮮總督府鐵道局參事、貴族院議員
性別男性
生年月日明治九年七月十九日 (1876)
親名・続柄 兒玉源太郞の長男
家族母 マツ 安政三、四生、大阪、平、岩永秀松七女
妻 サワ 明一四、四生、伯爵寺内正毅長女
弟 貞雄 明一二、一生、三井物産株式會社員
弟妻 シツ 明一七、六生、弟貞雄妻、東京、平、江副廉藏二女
弟 友雄 明一四、一〇生、正七位勳五等功五級陸軍步兵大尉
弟妻 みつ 明二五、三生、弟友雄妻、男爵中村雄次郞三女
弟 常雄 明一七、三生、正七位勳五等陸軍工兵中尉
弟妻 八重子 明二六、一一生、弟常雄妻、侯爵木戸孝正二女
弟 國雄 明一九、九生、法學士
弟 八郞 明二四、四生、學習院在學
弟 九一 明二六、八生、第一高等學校在學
妹 モト 明二八一〇生、學習院女學部出身
妹 ツル 明二九、一二生、學習院女學部在學
伯母 ヒサ 天保一四、四生、亡父源太郞姉
記述部分(略伝)當家は先代兒玉源太郞より家名を揚ぐ源太郞は舊山口藩士にして戊辰の役官軍に從ひ東北の野に轉戰して功あり明治四年陸軍中尉に任す佐賀の亂に奮戰し銃傷を負ふ後ち少佐に進み熊本城に籠城し續いて日向薩摩に敵を破り偉功を奏す爾來累進して中將に進み陸軍次官を經て同大臣に親任せらる日清の役には大本營帷幕に在りて軍機に與かり功を以て男爵を授けられ功三級金鵄勳章を賜ふ爾後臺灣總督として後藤男爵を用ひ遂に統治の實を擧げ子爵に陞さる日露の役には參謀次長として軍務を執り後大將に進み滿洲軍總參謀長として強露の兵を破り將軍の名世界に高く功を以て功一級を授けらる不幸にして天壽を假さす明治三十九年薨す
君は其長男にして明治九年七月十九日を以て生れ同卅九年七月家督を相續し襲爵仰付らる明治三十三年東京帝國大學法科大學を卒業して法學士の稱號を得會て大藏書記官に任し後ち統監府書記官たりしが同四十三年十月朝鮮總督府設置と共に現官に任せられ同四十年九月父の勳功に依り伯爵に陞さる
家族は前記の外長女貞子(明三五、一生)甥宣雄(同四二、四生、弟貞雄長男)姪君子(同四三、一〇生同長女)甥藤雄(同四五、二生、弟友雄長男)姪文子(大元、八生、弟貞雄二女)あり
養妹ヌイ(明二〇、二生)は子爵山口十八に妹ヨシ(同二一、八生)は滋賀縣平民立花俊吉に同ナカ(同二三、一生)は法學博士穗積陳重長男重遠に嫁せり
住所・電話番号朝鮮總督府官舍
東京、牛込、市ケ谷藥王寺町三八 電話番町三九〇・一九三九
参照人物(親類)侯爵木戸孝正、伯爵寺内正毅、子爵山口十八、男爵中村雄次郞江副廉藏穗積陳重、※子爵福羽逸人、※日下部三九郞
参照次数8 (※なし6)
読みこだま ひでお
別名
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